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私の人工遺物発掘の歴史(長さん)

 私の場合、発掘作業の経験も無い者であるため、遺跡を掘り
返した場所で、何か昔の人に係わる人工遺物を手にした経験も
少ないのであるが、出土物そのものが、きわめて多い、著名な
遺跡で、人工遺物を、目にした事が全く無いという、ほどでも
ない。遺物を目にした、著名な遺跡として、栃木県栃木市の星
野遺跡があり、考えてみると思い出はたぶん、全部ここに限ら
れるのではないかと思う。なお、栃木市星野遺跡には、税理士
の斉藤恒民氏が開設した、「星野遺跡記念館」があり、ここで
遺物はそもそも多数見られるのだが、以下は、私自身が発見し
たとか、「ミニ発掘」に立ち会ったいう意味で、遭遇した遺物
に関するものである。
 まず、私自身が発見した、古代に遡ると見られる遺物として
「輪石」というのが挙げられる。元々が平たい、円盤状の手の
ひらに乗る位の石の中央部に、明らかに、人の手によるものと
みられる、穴がドーナツ状にあけられて、縄か何かを、通すこ
とができるようにした、普通の石である。たぶん、錘等、魚を
取るときの、仕掛けに使うのではないかと、想像する。以下、
私の発掘は、全部地面を掘らずに、地表で見つけたものに限ら
れるのだが、この物体の場合も例に漏れず、遺跡地層探検館の
すこし谷倉山という裏山に入った所の、山道から、沢に降りた
ところの、工事業者が廃棄したとみられる、砂利の山の中から
見つけたものである。現物はただちに、遺跡記念館の斉藤さん
に寄贈してしまったので、あるいは、今でもそこに有るのかも
しれない。
 なお以下蛇足で話は飛ぶが、この遺跡地層探検館の前の山道
を、林道「寒沢」線という。ところでこの林道が、小山よし姫
の墓を通過するだけでなく、谷倉山を越えて、反対側にも、
林道「寒沢」線が有るという、不自然で紛らわしい
ダブル「寒沢線」の謎というのがまずある。更に、「杉の林が
無ければ暖かい沢である」という、地元で、この林道を経由し
て、粕尾側から星野側に歩いて嫁に来たという、女性からの聞
き取りによる、”寒いから「寒沢」にしたのではない”という
”暖かい寒沢の謎”がある。これら、林道寒沢線の名前がらみ
の知見が大きく効いて、個人的に、

小山よし姫が、平安時代末期の”寒”川(河)尼の、南北朝時
代版とでも言える女性と特定され、よって、結婚前のもとの苗
字は「宇都宮」に間違いないと、私は結論づけている。
つまり栃木県栃木市と鹿沼市に1本づつ、谷倉山の表と裏にあ
る”寒沢”は、”『寒』川(河)尼とは、同族関係にある女性、
小山よし姫の墓の有る、山越え街道の『沢』”の意味であって、
「日当たりの悪い、寒い沢」の意味では、無いと言う事である。

以上の付けたりの話については、必要があれば、又取り上げる。
さて、話を元に戻す。
 他に顕著な物は、鏃発見を自慢話にする、箒星の捜索家、S
さんの、「やじり捜索」に立ち会ったときの、彼と共同の、や
じり発見がある。これも栃木県栃木市星野での事で、場所は、
前述の星野遺跡記念館の近くの、休耕中の田の中だったと思う。
このケースは、鏃であるので、材質は同じく石である。
 次は、おなじく星野遺跡記念館隣の、遺跡公園内で、土器片
を発見した事である。なお、この公園内で土器片を発見するの
は比較的容易であり、注意すれば、たぶん誰にでもすぐに見つ
かると思う。なお、きわめて細かく分解された、焼いた土の破
片にすぎないから、価値は全くゼロで、こうした土器片を収集
している人が居る、という話は全く聞かない。
 残りは、星野遺跡近くにある、小山よし姫のお堂のある、大
応寺の境内で、江戸時代のものとみられる鐚銭を、数年前1枚
拾った事があった。なお付近には、賽銭の置かれた、地蔵が古
くから有る。たぶん江戸時代のままなのであろう。この古銭は、
拾った時点で、錆びてぼろぼろになっており、ケースに入れて
持っていたら、こなごなに砕けて、ほどなく蹉跌状化してしま
った。
 またこの寺では、一昨年、ちょっとした整備工事が行われて
いた事があり、寺で明治時代の初期頃に使っていたとみられる、
油台のような瀬戸物が、無造作に野ざらしになっているのを、
見かけた事がある。あまり興味も無かったので、そのまま私も
スルーした所、そのうち風に吹かれたように、消えてしまって
いた。大応寺の備品にしても、小山よし姫の墓石にしても、
この界隈では、誰も用事が無いので、山の中の事ゆえ、すべて
がそのままで、200年前程度の物が、野ざらしでほったらか
しなのは、ごく当たり前で、珍しくもないようである。ただし、
そこに残っている物は、誰もわざわざ持ち去りたいとは、とて
も思えないような、代物ばかりではある。
 その他、前述の林道寒沢線から、里に近いところで、二股
(その後、又2つに枝分かれ)になる、林道山口沢線の、沢の
自動車道が切れる手前で30年くらい前に、錆びた馬の蹄鉄を
拾った事があった。山口沢や寒沢は途中で無くなるので、奥に
牧場はその跡も含めて存在しないし、中粕尾へ馬で抜ける者が、
最近になって居たとは考えにくい。”大越路”という、粕尾と
星野を繋ぐ車道がまだ無い、大正時代前後の馬車馬の蹄鉄の遺
物のように、私には思えた。なお、現在撤去されてしまってい
るが、かつて30年ほど前までは「林道寒沢線を通って、粕尾
側に抜けられる」との旨の標識が、ここにはまだ残っていた。
 たとえば、栃木県鹿沼市中粕尾の粕尾城の状況も、栃木市星
野と似ているので、漠然と行って、単に歩き回って何か無いか
どうかを探しただけでも、近世の終わり頃からの遺物程度なら、
全く遭遇できないとは、街中の遺跡と違って言い切れないよう
に私は思う。
 ただし、木製品となると話は別で、私には発見の経験は、全
く無い。たとえば、朽ち果てるのが、とても容易に見える小物
の”100年前の、野ざらし状態の将棋駒”が何で、水中なら
保存できてしまうのか、個人的には本当なのかが、現時点でま
だ、実の所信じられないでいる。(2017/01/22)

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