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古利根川・埼玉県南東部部分は、鎌倉時代には無かったとの文献(長さん)

利根川の変遷については、きちんとした文献が15世紀以降からのもの
らしく、古い時代の状態については、仮説的な部分もあると聞いている。
本日、チェックしたところ、利根川の歴史に関する文献で、表題のよう
なものを発見した。幾つかの成書を比較してみると、かならずしも、こ
れと合っているものばかりではないようで、埼玉県北葛飾郡松伏町沿い
の、利根川の存在について有りと図で示した、表題とは矛盾する内容の、
書籍もあるようである。そこで少なくとも、ここで紹介した書籍の説で
はという事になるのだが、

松伏町沿いの”古利根川”が発生したのは、享徳の乱(15世紀)の際
という事になっていて、下河辺行光が、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩付
近に、館を作っていた時代には、松伏町の松伏や赤岩付近に、大きな川
は、実は流れていなかったという事らしい。

では、この書籍で”利根川”が、鎌倉時代前期にどうなっていたのかと
言うと、”埼玉県北葛飾郡松伏町付近では、”

元荒川と利根川とは、じつは同じもので、今の元荒川に近い位置に、
鎌倉時代当時の利根川が有ったと言う事のようである。

ちなみにこの書籍には、元荒川の流路として、以下大事な点だが”埼玉
県北葛飾郡松伏町と越谷市付近の部分について、”大正時代と、同じ流
路の図が、第43図として載っていた。そこで、以下は私見だが、

鎌倉時代の元荒川は、”埼玉県北葛飾郡松伏町と埼玉県越谷市付近の流
れについては”、たぶん今の、新方川付近を中心として蛇行する、大正
時代とは、ぴたりとは合わない、標高の最も低い地点を、自然に流れる
恐らく今より、川幅の広い流れだったのだろうと思う。

根拠としては、埼玉県の遺跡の発掘分布を見ると、大正時代には畑台地
だったという、書籍の言うところの”鎌倉時代の利根川”の川岸・北岸
にあたるはずの、現在の埼玉県越谷市東越谷南域では、貝塚や古代の住
居跡等が、発見されているという話が、全く無いからである。ただし、
もっと南東部の、現在の中川にだいぶん接近する、越谷レイクタウン駅
北東の、埼玉県越谷市大成町8丁目付近で、古代の住居跡らしきものが
発見されていると、私は確認している。そして、埼玉県越谷市大成町8
丁目付近は、中川合流後の古利根川と、新方川と元荒川とが、もともと、
現在はすべて同士が合流地点に近くて、川同士が接近した場所なので、
今の元荒川を挟んで、現在の新方川沿い、鎌倉時代以前の利根川の地点
の遺跡と見ても余り、間違って、い無いということだと私は考える。
ちなみに、ここは現在は、造成が進んでいて、私が最近確認した限りで
は、遺物は、地表には散乱していない所と思っている。何れにしても、
館があるとすれば、どこかの台地の、どのくらいかは良くわからないが、
とにかく今よりは広大に広がった、鎌倉時代当時の利根川流域の、全体
としては、中州のような場所なのであろう。動き回りかつ、幅もはっき
りしない”川”ではなくて、それ自身は、そう大きくは変動しないと
期待される”台地”が、どうやら唯一の、館の目印のように私には思え
てきた。なお、”鎌倉時代の利根川は、武蔵と下総の国境”との事なの
で、現在の県境にあたるものが、鎌倉時代~室町時代初期については、
こんなにも、今となっては推定が不確実とは、何とも驚くべき事ではある。
(2017/03/11)

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