字”屋敷通”を辿ってみる。(長さん)
既に調査はしているのだが、3月12日、前回のべた字名で
”屋敷”のつくうちの、埼玉県越谷市増森字屋敷通から、同埼玉
県北葛飾郡松伏町下赤岩字屋敷附まで、古利根川を跨いで、越谷
市側から松伏町側にたどってみた。なお現在は、越谷市増森丁目
無し1000番代から松伏町下赤岩へは、埼玉県越谷市増森丁目
無し1000番代を調査後、そこの東端から、いったん埼玉県
吉川市川藤字榎戸へ中川西岸沿いに入り、同埼玉県吉川市須賀ま
で行き、そこに入った所に有る新川橋で、中川を渡り、ついで、
埼玉県吉川市川藤(中川東岸部)から、埼玉県北葛飾郡松伏町
下赤岩へ入り、ついで再度、同埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩にあ
る、弥生橋で中川を渡らないと、古利根川を跨いだことにはなら
ない。なお現在は、古利根川は、弥生橋と新川橋との間で、中川
へ注いで、名前が古利根川から中川に変わるため、この川自体は
渡らずに、越谷市から松伏町への古利根川越えが、結果としては
できるのである。
また、途中埼玉県吉川市川藤(中川東岸部)から埼玉県北葛飾
郡松伏町下赤岩(中川東岸部)へは、直線で中川筋東岸を移動せ
ず、埼玉県越谷市増森字屋敷通のメイン通りの、中川東岸延長上
にある、埼玉県吉川市川藤の武輝神社付近を、一応再度チェック
後、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩屋敷附へ向かった。このように
現在の川の存在や、現在の行政区の名称に、ほぼ惑わされること
無く、台地沿いに遺物が無いかどうか、今回からは注意して見て
みたのだが、結果としては前回同様やはり、
埼玉県越谷市増森字屋敷通と、そのメイン通路の中川越えの延長
点である、埼玉県吉川市川藤の武輝神社付近は、特に、
これといって、ヒト気を感じさせる、土器片の散乱等が、みられ
るという所では、無いようであった。
その後再度、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩字屋敷附付近を、経路
を前回の調査時とは、東に少し変える等して、見てみたが、ここ
も前回同様、鎌倉~室町期のヒト気を感じさせる、土器片の散乱
等は、やはり前回同様、無いように見えた。今回調査した市町
境目の領域は、江戸時代以降の護岸工事で、地表からは、痕跡が
ほとんど失われ、字地名に恐らく微かに、当時の面影が、今では
残っているだけの場所ように、私には感じられた。(2017/03/13)
”屋敷”のつくうちの、埼玉県越谷市増森字屋敷通から、同埼玉
県北葛飾郡松伏町下赤岩字屋敷附まで、古利根川を跨いで、越谷
市側から松伏町側にたどってみた。なお現在は、越谷市増森丁目
無し1000番代から松伏町下赤岩へは、埼玉県越谷市増森丁目
無し1000番代を調査後、そこの東端から、いったん埼玉県
吉川市川藤字榎戸へ中川西岸沿いに入り、同埼玉県吉川市須賀ま
で行き、そこに入った所に有る新川橋で、中川を渡り、ついで、
埼玉県吉川市川藤(中川東岸部)から、埼玉県北葛飾郡松伏町
下赤岩へ入り、ついで再度、同埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩にあ
る、弥生橋で中川を渡らないと、古利根川を跨いだことにはなら
ない。なお現在は、古利根川は、弥生橋と新川橋との間で、中川
へ注いで、名前が古利根川から中川に変わるため、この川自体は
渡らずに、越谷市から松伏町への古利根川越えが、結果としては
できるのである。
また、途中埼玉県吉川市川藤(中川東岸部)から埼玉県北葛飾
郡松伏町下赤岩(中川東岸部)へは、直線で中川筋東岸を移動せ
ず、埼玉県越谷市増森字屋敷通のメイン通りの、中川東岸延長上
にある、埼玉県吉川市川藤の武輝神社付近を、一応再度チェック
後、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩屋敷附へ向かった。このように
現在の川の存在や、現在の行政区の名称に、ほぼ惑わされること
無く、台地沿いに遺物が無いかどうか、今回からは注意して見て
みたのだが、結果としては前回同様やはり、
埼玉県越谷市増森字屋敷通と、そのメイン通路の中川越えの延長
点である、埼玉県吉川市川藤の武輝神社付近は、特に、
これといって、ヒト気を感じさせる、土器片の散乱等が、みられ
るという所では、無いようであった。
その後再度、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩字屋敷附付近を、経路
を前回の調査時とは、東に少し変える等して、見てみたが、ここ
も前回同様、鎌倉~室町期のヒト気を感じさせる、土器片の散乱
等は、やはり前回同様、無いように見えた。今回調査した市町
境目の領域は、江戸時代以降の護岸工事で、地表からは、痕跡が
ほとんど失われ、字地名に恐らく微かに、当時の面影が、今では
残っているだけの場所ように、私には感じられた。(2017/03/13)
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