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吉川市須賀の屋敷通延長地点調査(長さん)

3月14日、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩屋敷附関連の2つの
字屋敷名のうち、埼玉県吉川市川藤榎戸近くの、同吉川市須賀
の字地名”屋敷通”の延長地点、吉川市川藤(中川東側)、
新川橋付近を、ざっと見てみた。なお、吉川市須賀字屋敷通
付近には、土器のカケラを思わせる、陶器のごく小さな破片の
散乱が、見られる場所がある。が結果を述べると、現中川東側
については、これと必ずしも連続はしておらず、中川から東に
離れるに従い、ヒト気は急に薄くなるようであった。

恐らく江戸時代に存在したという、新川橋東詰の少し北に有る、
現在は公園化されている”川藤代官屋敷跡”というのが、
この界隈のヒト気の、もともとの原因だったのかもしれないと、
今回初めて、私も気が付いた。

 なお、この代官屋敷跡は普通の道路地図には載ってい無いが、
吉川市川藤242番地付近にある。この代官屋敷跡公園と、向
かい隣の曹洞宗の寺院、東泉寺付近一帯が、実際の代官屋敷で、
広さからみると、江戸時代には、けっこうりっぱな建物が建っ
ていたと、推定できる。なお、吉川市川藤でも、現中川の東側
は、字地名に、”新田”が付いており、江戸時代には村は無く、
この代官屋敷は、現在の中川西岸の、埼玉県吉川市川藤字榎戸
や、同吉川市須賀字屋敷通あたりを、当時は支配地にしていた
のだろう。
 また、この”川藤代官屋敷跡”が、下河辺行光の屋敷でもあ
るとの伝説は、特に無いようである。なお残念な事に、公園向
かい隣の

東泉寺は、”無用の者立ち入り禁止”の旨の看板を出し、どう
いうわけか、外部との接触を嫌っているように私には見える、
今は余り見かけないタイプの寺である。

web上には、観光案内を連想するサイトも認められるが、来
訪を予定されている方は、注意されたい。
つまり、この周辺も含めて、ほぼすべての寺は概ね、寺の由緒
を、市町村の教育委員会等に作成させて、己の存在をアピール
し、付近にやって来た者に注意を引いて、寺の存続に役立てよ
うとしている開かれた例が多いのに、東泉寺だけはそうなって
いないと、私には認識される点を、ここでは指摘している。
 逆に言うと、埼玉県吉川市川藤の東泉寺は、何か重大な情報
等を持っているのだが、何らかの事情で、隠すわけが有るよう
な”宝の寺”なのかもしれない。警戒はしておきたい場所だと、
私はその看板を見て、逆に思った次第であった。(2017/03/16)

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