日本の将棋の将位駒のルーツ”大理国仏像”(長さん)
現在のところ、私は日本の将棋の将位駒、玉将、金将、銀将、銅将・・・
のルーツは、大理国の金鉱仏像なのではないかと、疑っている。
根拠は、大理国のあった、雲南省大理の大理三塔主塔から、金の仏象、
銀の仏像、銅の仏像と並んで、水晶の仏像や、玉の菩薩像も出土して
おり、”玉将”に当たる仏像に、抜けが無いという、手回しの良さが、
感じられるからである。ちなみに、これらの宝物は、中国雲南省にある
雲南省博物館で保管展示されており、たとえば三塔主塔から出土した
水晶仏坐像には、下の写真の顔のようなものがあるらしい。詳しくは、
雲南省博物館の実際のカタログで確認すると良いだろう。いわばこれが、
(水晶仏坐像 大理国時代 高さ6.6センチ 100グラム
雲南省大理県大理三塔主塔内発見、雲南省博物館所蔵の顔写真)
日本の将棋の駒の中心、玉将のルーツ(私論)という事になる。
恐らく高さが、上記の三塔主塔出土品の半分程度で3センチ位、重さが
10グラム程度の玉将駒が、日本の天皇または、藤原氏が当時占めていた
摂政、関白向けの、北宋交易商人からの、”唐、天竺、南蛮”モノ贈答品
として、西暦1000年頃に、仏教の経典の五角形の札が、かなりの数、
役所に保管されていた九州大宰府に、入ってきたという事が、実際に
有ったのではないかと、私は推定している。
ここで仏像が将位駒になった云われは、繰り返しになるが、大理国
の皇帝、王または将軍が、後に皆、仏門に入ったとの故事に由来すると
私は考える。なお、三塔主塔からはむろん、金の仏像、銀の仏像、
銅の仏像、金鉱仏像、石仏、私は確認していないが、木彫りの仏像も
出土しているから、これらの製作技術を、大理国は持っているわけで、
玉仏像駒といっしょに、恐らく日本の大宰府に、これらも入ってきた
のではないかと思う。そこで19×19升目制100枚前後の
中国北宋時代の広将棋の、対応する日本の将棋版、原始広将棋、または、
ごく原始的な摩訶大大将棋を、日本人がデザインする素材にも最初から、
事欠かなかったと私は考える。ただし純粋鉄仏、瓦仏、漆喰(土)仏は、
雲南省大理からは、まだ特に出土しておらず、応用して新たに概念を、
日本で作るしか、なかったのだろうが。
なお、雲南省の10~11世紀の古代仏像が、日本の将棋駒のもと
だと考えると、当時雲南省には、現在マークルックを指しているタイ
人が、民族南下途中で住んでいたとされるため、
1.日本小将棋の銀将の位置の駒のマークルックの動かし方ルールが、
銀将と同じである点、
2.シャンチーと異なり、日本の将棋とマークルックでは、兵が金将
の位置にある駒に成る点
3.兵が日本小将棋とマークルックでは、2段目や4段目ではなくて、
3段目に配列されている点
4.日本の将棋もマークルックも、歩兵の成り点が相手陣基準であって、
中央の河や敵陣最奥では無い点
以上4点もの、マークルックと日本の小型将棋の近縁性についても、
10世紀の大理の時代のゲームのルールを、タイ人がのちに民族南下
後、タイに持ち込んで、マークルックを指したための共通性
と考えればうまく説明が付くため、都合が良いのではないかと、私は
前から考えている。つまり私に言わせると、升目の中央に駒を置く、
交点駒置きへの中国シャンチーへの、変化の過程を欠いた日本の将棋は、
中国と東南アジアの文化の程よい中間点、石と鉱山の国、
中国雲南省の古代王国、大理国からやって来た
とみられ、純粋中国中原由来とは言えないゲーム、という事になる
のではないかと考える。(2017/04/20)
のルーツは、大理国の金鉱仏像なのではないかと、疑っている。
根拠は、大理国のあった、雲南省大理の大理三塔主塔から、金の仏象、
銀の仏像、銅の仏像と並んで、水晶の仏像や、玉の菩薩像も出土して
おり、”玉将”に当たる仏像に、抜けが無いという、手回しの良さが、
感じられるからである。ちなみに、これらの宝物は、中国雲南省にある
雲南省博物館で保管展示されており、たとえば三塔主塔から出土した
水晶仏坐像には、下の写真の顔のようなものがあるらしい。詳しくは、
雲南省博物館の実際のカタログで確認すると良いだろう。いわばこれが、
(水晶仏坐像 大理国時代 高さ6.6センチ 100グラム
雲南省大理県大理三塔主塔内発見、雲南省博物館所蔵の顔写真)
日本の将棋の駒の中心、玉将のルーツ(私論)という事になる。
恐らく高さが、上記の三塔主塔出土品の半分程度で3センチ位、重さが
10グラム程度の玉将駒が、日本の天皇または、藤原氏が当時占めていた
摂政、関白向けの、北宋交易商人からの、”唐、天竺、南蛮”モノ贈答品
として、西暦1000年頃に、仏教の経典の五角形の札が、かなりの数、
役所に保管されていた九州大宰府に、入ってきたという事が、実際に
有ったのではないかと、私は推定している。
ここで仏像が将位駒になった云われは、繰り返しになるが、大理国
の皇帝、王または将軍が、後に皆、仏門に入ったとの故事に由来すると
私は考える。なお、三塔主塔からはむろん、金の仏像、銀の仏像、
銅の仏像、金鉱仏像、石仏、私は確認していないが、木彫りの仏像も
出土しているから、これらの製作技術を、大理国は持っているわけで、
玉仏像駒といっしょに、恐らく日本の大宰府に、これらも入ってきた
のではないかと思う。そこで19×19升目制100枚前後の
中国北宋時代の広将棋の、対応する日本の将棋版、原始広将棋、または、
ごく原始的な摩訶大大将棋を、日本人がデザインする素材にも最初から、
事欠かなかったと私は考える。ただし純粋鉄仏、瓦仏、漆喰(土)仏は、
雲南省大理からは、まだ特に出土しておらず、応用して新たに概念を、
日本で作るしか、なかったのだろうが。
なお、雲南省の10~11世紀の古代仏像が、日本の将棋駒のもと
だと考えると、当時雲南省には、現在マークルックを指しているタイ
人が、民族南下途中で住んでいたとされるため、
1.日本小将棋の銀将の位置の駒のマークルックの動かし方ルールが、
銀将と同じである点、
2.シャンチーと異なり、日本の将棋とマークルックでは、兵が金将
の位置にある駒に成る点
3.兵が日本小将棋とマークルックでは、2段目や4段目ではなくて、
3段目に配列されている点
4.日本の将棋もマークルックも、歩兵の成り点が相手陣基準であって、
中央の河や敵陣最奥では無い点
以上4点もの、マークルックと日本の小型将棋の近縁性についても、
10世紀の大理の時代のゲームのルールを、タイ人がのちに民族南下
後、タイに持ち込んで、マークルックを指したための共通性
と考えればうまく説明が付くため、都合が良いのではないかと、私は
前から考えている。つまり私に言わせると、升目の中央に駒を置く、
交点駒置きへの中国シャンチーへの、変化の過程を欠いた日本の将棋は、
中国と東南アジアの文化の程よい中間点、石と鉱山の国、
中国雲南省の古代王国、大理国からやって来た
とみられ、純粋中国中原由来とは言えないゲーム、という事になる
のではないかと考える。(2017/04/20)
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