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二中歴の盤双六と違い、将棋はルールの説明で中身が占められている理由(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも載っているが、二中歴は加賀前田家に
伝承された写本が唯一の残存する史料であり、将棋のほかに、囲碁や盤双六
の項もある。しかし、平安時代末期時点で囲碁には歴史があり、ルールが
広く行き渡っていて、いまさらながらの解説で、言及されないのは判るの
だが、盤双六の所でも、達人の名や、その素性に関する情報等が挙がっている
ばかりで、初期配列の覚え方の記載も無いのは、将棋と比べると、不自然に
カテゴリー内容が、大きく違いすぎるような気も私にはする。これは、
いったい何が、背後にあるのであろうか。それが、今回の話題である。
 一般的には、二中歴は忘備録であり、大事だが、ごちゃごちゃしていて忘
れそうな内容を網羅的にまとめて、更に暗誦に便利なように、韻をうまく
付与させた文献だと言われている。そう言う事なら、平安末期に、たとえば
都で新ルールが、少し盛んになってきて、その双六のルールを、新参貴族
が多少誤ったとしても、”大事には至らない”のに、将棋ではそうではない、
という事になるのかと思うのだが、以前より、これはいったいどう言う事
なのだろうかと、私はあれこれ理由を考えてきた。
 いろいろ思い浮かぶ事があるが、二中歴の将棋の記載で、間違えると
命取りなのは、ひょっとすると、一言で

大将棋が13升目で小将棋とは違い、玉将を中央に置く事

なのかもしれないと私は思う。恐らく

1.玉将を中央に置く事
2.9升目の小将棋だけでなく4升目増やして13升目にした将棋がある事

の1.2を知らないと、宮中に出入りしたとき等に、恥をかく。つまりは、
1.と2.に関して、その時点からみても、数十年という桁の、だいぶん昔
に宮中で、それに絡んで、政治的にひと悶着あった。そこで、どんな名前の
達人が、存在またはかつて、存在したのかを知らないと、宮中では恥ずかし
い、双六や囲碁とは、覚えておかなければならない、カテゴリーが全く別で、
それはゲームのルールだった。つまり囲碁や双六のように、先達の名手の行
きざまについて、共通の話題が話せる教養としての、知識がある事が重要で
はなかった。そうではなくて、そんな事よりも将棋では、9升目の将棋とは
違う、13升目の大将棋が、摂関等の上層部の因縁からみで、指されている
事を認識しなければなかった。更に玉将が公式の平安各将棋では、中央にあ
る事にも、因縁があり、しかも、それにつき政争のドラマがあるという事を、
実際には内容まで知っている必要があった。そして万が一、それを知らずに、
お偉いさんの前でさいしょの顔見世で、間違ったルール、特に平安大将棋を
並べるとき、玉将を置くのに、もたもた等すると恥をかいて、以降後々まで、
出世に影響するという事情が、平安時代末の日本の宮中には、存在したと、
言う事なのではないかと、私は推察する。つまり、
1.藤原摂関をかつて院政期初期に、上皇派が追い出そうとして、上皇派が、
  8升目で、玉将が、中央二列のうちの左側最下段だった原始平安小将棋
  系を、摂関が実支配する国家のイメージと、だぶらせながら、その点を
  揶揄して、少なくとも公式の場から、全て追放した。
2.その後官位が12階である事を、13升目の決定要因としてうまく使い、
  9升目取り捨て平安小将棋が出来の悪いのを、今度は逆に攻撃材料にし
  て藤原摂関家が、将棋を政争の道具として使い、政治的に巻き返した
という事が、実際に宮中で有ったのだと思う。すなわち、
こういった、朝廷内での一騒動に関する経緯を常識として知っており、宮中
を出入りする際には、それに注意を払うことが、政治闘争とは特に関連がな
く、ゲームの改善等が目的だったために、最初は間違えても、特に恥をかか
ない、盤双六の、都の新ルールが仮に有ったとして、その理解とは違って、
将棋では、新米の公家にも都ルールの記憶は、必須だったのだろう。そのた
め、二中歴の記載内容のカテゴリーは、将棋だけが、囲碁や双六とは大きく
違って、ゲームのルールや、将棋種の記載になってしまったのだろうと、私
は少なくとも現時点では、推測しているのである。(2017/05/27)

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