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日元貿易時代の外国遊戯の情報流入(長さん)

前に、元寇の頃には、日本と高麗の関係は冷えており、現代の日本と北朝鮮
の関係と同じで、駒数多数チャンギの情報が存在しても、元寇の頃には詳細
が輸入されないかもしれないとの旨の、仮説を述べたことが有った。実際に
は、普通唱導集大将棋が、升目の数で、平安大将棋と同じになりやすいため、
日朝関係が元寇の頃には、今の北朝鮮と日本との関係と同様に、冷えていて、
情報が限られていた方が、このブログの論旨にとっては、有利な事も確かで
あった。しかし、韓国歴史教科書研究会等編集の、2007年明石書店発行
の「日韓交流の歴史」(日韓歴史共通教材)を読むと、13世紀の日元貿易
と、14世紀の日明貿易との間で、遊戯関係の情報の日本への流入量に関し、
さほどの差が、で無いのではないかとの心象を受ける記述を、最近発見した。
 同著によると、貿易の形式は、明の時代には朝貢冊封体制に、日本も従い
対明貿易を行う等、13世紀の対元貿易とは違いが有るという。しかし結局、
日本が中国から、輸入する物品の内容を比べてみると、同書によれば、
 13世紀の対元貿易時の輸入品は、銅銭、陶磁器、茶、書籍、絵画
 14世紀の対明貿易時の輸入品は、銅銭、生糸、高級織物、書物、書絵
との物品名が記載されていて、

書物や”図関連”とか、情報を持ったものが、大陸からの輸入品にある事に
は、大差が無いように思えた。

だから、今の韓国・北朝鮮発の情報量も、元の時代と明の時代とで、差が
無いと、疑ったほうが良いのではないかと、私には思えるようになった。つ
まり、思いのほか日元貿易は盛んで、情報の停滞もなかったと、この書から
読み取れる、ようなのである。
 そもそも、今の日朝関係と異なり、日本と元・高麗の関係が、軍事的には
冷え込んでいても、交易は無くならないのは、蒙古が広大な領土を所有し
ていて、保持物品や情報量が、遠くヨーロッパ発にまで及んでいることを、
鎌倉幕府や朝廷も、当然知っていて、メリットを感じていたからであろう。
その点で後ろ盾が東アジアに限られる、中華人民共和国止まりの、現在の
北朝鮮とは、大きな違いがあると、気がつくべきだったと、同書を読んで、
私は反省させられた。
 だから、元の時代に仮に高麗で、15列14段制のチャンギが発明されれ
ば、蒙古襲来の頃であっても、情報が日本に入ってくる可能性は、かなり
高いのかもしれない。恐らく、

その結果、13升目制の平安大将棋の升目数を、日本人の大将棋棋士総体が、
たとえば15×15升目に変えると、認めるかどうかだけが、変化するかど
うかを、決めるだけなのかもしれない。

 認めないでくれるようにしないと、このブログにとっては困る訳だが。
認めなかったろうという立場に立ったとしても、証明するのは、厳密には困
難だと感じる。
 傍証として挙げられるのは、江戸時代に改暦の際参照された、グレゴリオ
暦と同じ回帰年、365.2425日を採用した元の授時暦を、高麗は
取り入れたが、日本の鎌倉幕府内で、改暦の動きは無かったという事位であ
ろう。
 つまり、たとえば西暦1220年頃の時点で、その400年程度前に完成
した宣明暦には、太陽の天球上の位置に関して、西へ1度のズレ(回帰年が、
約1/400日長すぎ)があった。それに無理やりあわせるために、月の
位置が1度西にズレた暦を、使わなければならないはずなので、角度で月の
大きさ2つ分、月の動きの時間で、2時間分の東西位置の違いを、検知でき
れば、三島地方暦の発端との仮説もある、鎌倉幕府の陰陽道の係りの役職の
御家人にも、鎌倉幕府の仮設の暦編纂所に於いて、星座に詳しければ、目視
で暦に誤差があるのを、検知できたはずである。しかし当時は、蒙古文化は、
月の位置に、相当注意しなければ判らない程度なら、ひょっとして取り入れ、
たがらない傾向が、有ったのではないか。そう仮定すれば、改暦が日本では、
蒙古来襲の頃が、良い暦が中国で出来た、絶好の機会だったはずにも係わら
ず、たまたまそれをそのときに、行わなかったのが改暦間隔の開いた原因か
もしれない。結果、宣明暦使用期間が、本来なら約400年のはずが、
約800年にまで、伸びてしまったのかもしれないと私は思う。そして江戸
時代には、宣明暦誤差が、鎌倉時代の2倍強に増え、それでも私には、どっ
こいどっこいの、検出に要する努力の差だと思えるのであるが、江戸時代に
は、蒙古への敵対心は、既に遠い昔の出来事と忘れ去られたため、暦誤差が
大いに問題になって、武家方の幕府によって今度は、改暦がなされたと、一
応は説明できるのかもしれないとは、考えた。
 つまり鎌倉時代にも、賢明な者による、元王朝の情報力の強大さから、
”大陸物は、たいがいは取り入れたほうが良い”という意見は、当然あった
のだろうが、

仮に、日本人はその時点での多数派が、今回引用した「日韓交流の歴史」の
言うように、仮に”夷狄観等の発展した朝鮮蔑視観を持っており”、よって
15×14路制チャンギ型が、仮に猛古来襲時程度に、完成伝来した場合に
は、それを参考に、上記の蔑視観が理由で、大将棋の転換をしなかった

と仮定できれば、そう出来た場合に限り、15升目型後期大将棋への、朝鮮
駒数多数チャンギゲームからの影響は無い、と証明できるにすぎないように、
思えた。以上のように、15×14路制チャンギ型広将棋は、室町時代にで
きたか、あるいは日本人の、排外意識等が、鎌倉時代の中期には強かったか、
どちらかの理由で、大将棋へは影響が無かったというケースにしか、無視は
出来なくなったと、私は腹をくくるに至ったのである。(2017/06/24)

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