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平安小将棋がタイ人の象棋である仮説をチェックする(長さん)

少し前に、日本の将棋が中国シャンチーの、北宋初期の源流、11筋×10段
32枚制北宋象棋起源であるとは、仮定できない主な根拠として、
1.砲の存在と、それが原因の兵数の半減、兵の4段目への初期位置前進、河の
  存在
2.イスラム・シャトランジの影響による、金将駒の差と、敵味方駒の色による
  塗りわけ
の2点を実質挙げた。だが、他の外国の将棋全てについて、この程度の差がある
として、それでも日本の将棋が外国起源だと言うには、この差が、近縁種として
名高いたとえば、タイのマークルックに比べて、相当大きい事を示さないと、
”がまんできない差”にされてしまうだろう。そこで、今回は同じパターンで、
タイのマークルックについて、平安小将棋との差を考えてみる。
 まずマークルックについては、砲の問題は無いので、考えなくて良い。その点
だけでも、差は甚大だ。更にマークルックでは、8×8升目32枚制の原始
平安小将棋と、駒の数、および初期配列に配置された、駒の類別が、それぞれ
32枚とも位置、およびその種族全部について、原始平安小将棋と完全に一致し
ている。そのため少なくとも、ゲームのルールに関して、

砲の問題に匹敵するような差は、シャンチーと平安小将棋との間の関係と違い、
マークルックと日本将棋の間では、存在し得ない。

むしろ、日本将棋と原始平安小将棋の差を知らないと、タイのマークルック史研
究家の方が、飛車と角行の存在を見て、”我々の象将棋と違う”と早合点し、
誤った結論を出す心配があるという、我々にとって、常識的な日本国内の将棋史
の情報に関して、むしろ我々の側に発信の責任があるという、関係にさえなって
いる。
 更に2について、以下私見だが、

マークルックと原始平安小将棋の2に関する差は、概ねタイ領内に先住していた
モン族の成立させた、東南アジアの中世王朝に原因を着せれば、解決する差

だと私は思う。もともとタイ付近で王朝を立てていた、タイ族から見れば先住の
モン族の王朝にも、シャトランジを指すイスラム教徒のアラブ人が、中国の唐の
時代以降の適当な時期には、存在したと推定される。たとえばペグー=エーヤー
ワディー王国は、交易が盛んな国家だとされるため、その例だと思われる。
そのため、現在のタイのマークルックの副官・金将駒は、シャトランジの動き、
象・銀将駒は、玉駒類似の、銀将の動きと言うように、モン流、タイ流で、まぜ
こぜになっているのだと私は思う。
 なおタイのマークルックは現在、比較的リアルな形が、残存している馬駒を除
いて、大理国の三塔主塔や、埼玉県児玉郡美里町で発掘された事で知られる、
仏塔を象った駒を使っているという。たたしその、仏塔駒が抽象化し、前後が、
その立体駒を見ただけでは、判らない形になってはいるらしい。そのため、中国
シャンチーや西洋チェス同様、タイのマークルックの駒も、敵味方を区別するの
に、本来なら色分けした方が、良い状況にはなっているようだ。しかし、このよ
うな

抽象化も、モン族の王朝国家内で指された”8×8升目32枚制シャトランジ型
原始片割れマークルック”でだけ、起こった現象

なのではないか。つまり、タイ族を支配していた王朝の、大理国で指されていた
”8×8升目32枚歩兵3段目配列制原始平安小将棋型マークルック”では、
国王が仏教徒として極めて厳格であって、異教徒は住みにくかっただろうから、
イスラム教徒のアラブ人が、大理国の首都現大理市付近で、シャトランジを指す
事は、ほとんど無かったのではないかと私は思う。そのため、駒の形の抽象化は、
大理国起源の片割れにまで遡ると、ほぼ消えてしまい、極めてリアルな細かい細
工を施した形の駒に、変わってしまうのではないかと、私は予想するのである。
 以上の事から、2のマークルックの金将と駒の色の問題は、タイ国内に住んで
いた先住民族のモン族王朝のイスラム教徒に対する、大理国に無い寛容な性質に、
原因を着せれば、解決するのではないかと、私は考える。
 なお、これ以上になると、シャンチーと平安小将棋にも存在する、その他の微
小な差を、タイの将棋についてだけ議論する事になる。が一応、成り駒の構成差
と、馬駒、車駒の、マークルックと原始平安小将棋間のルールの差について、考
えてみる。以下、あくまで私見だが、

大理国の将棋に、馬が八方桂と桂馬、車が飛車と香車の、それぞれについて、
複数のローカル変種が存在した可能性もある

のかもしれないと思う。また、成りについても、歩兵(とひょっとすると銀も)
だけ、相手陣3段目で成るのと、玉と金将以外が相手陣3段目で成るのと、2種
類の系統が、あった可能性もあるのではないか。おおかた、銀・馬・車も成る、
大理国象棋は、馬が桂馬、車が香車、歩兵だけしか成らない大理国象棋は、馬が
八方桂、車が飛車で、全体として着手空間が、互いにほぼ等しくなって、ゲーム
の質は、どっこいどっこいで拮抗していたのかもしれない。何れにしても、マー
クルックから、日本の8升目制原始平安小将棋へ、進化するのは極めて容易であ
るばかりでなく、いくつか存在した可能性のある、

ローカルルールの変種のうちの一つが、ゲームとして全く同じ物であった可能性
を、否定できない

と考える。この点、中国シャンチーとは、対照的な状況であると理解する。恐ら
く、”8×8升目32枚歩兵3段目配列制原始平安小将棋型マークルック”の変
種と、8×8升目32枚制原始平安小将棋との差は、大理市三塔主塔出土遺跡の
遺跡史料からみて、極めて精細でリアルな立体象棋駒で、それをゲームしたのか、
五角形の木製駒でゲームしたかの、差でしか無いのではないか。であるとすれば、
両者は実質的に全く同じものであって、単に日本人の棋士には、大理市三塔主塔
の遺物のようにリアルで高価な駒が、多くの場合金が無くて、入手できなかった
だけだと、考えざるを得ないように、私には思われるのである。(2017/07/11)

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