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誰が指しても良い事にして原始平安小将棋類は、いつからあるのか(長さん)

 元将棋博物館の館長の木村義徳氏は、インドにチャトランガが発生してか
ら、そう遠くない時期の相当古くから、日本に将棋が伝来していたと、「持
ち駒使用の謎」等で主張している。私の論も、日本の将棋は西暦1019年
頃より、との説であるので、木村氏の批判を浴びそうだ。しかし、私は将棋
自体は、もっと古くから日本に来ており、記録が残らなかったのは、”日本
では識字階級が指さなかった”からではなくて、伝来しても流行らなかった
からだと、考えている。では、私の言うように、大理国から8×8升目32
枚制玉金銀付き原始平安小将棋が、結果として流行るように伝来したとして、
それ自身は、何時中国雲南省で、発生したものなのであろうか。以下、これ
も私見であるが、まずは私の考えを書く。

南詔国が雲南に設立した、西暦750年の日本の奈良時代、中国の唐の時代
で、玄怪録が書かれる数十年前には、原始平安小将棋と言える、それに近い
将棋が発生していた

と、私は思う。ここで、”言える”とは、次の点が、日本に伝来した時点の
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、異なる点であるが、他は同じと
いう意味である。
1.駒の名称で将駒は3種類有ったが、玉・金・銀とは限らない。金将が玉
駒で、以下上将、象将等で有っても良い。駒が貴金属製なのは、大理国時代
の3種類ではなくて、2種類か1種類と、やや、しょぼかったかもしれない。
2.馬が八方桂、車が飛車のルールだった。
3.相手陣の3段目で成るのは、兵だけだった。
4.兵がもしかすると、相手駒を取るとき、斜め隣接升目に進んだ。

つまりは、日本の将棋で副官に当たる駒が、金将と同じく、隣接升目だけに
行けるのに加えて、行ける数がマークルックの4方向ではなくて、玉将の8
方向と銀将の5方向の中間、たとえば6方向になる事(1)と、駒の名称に、
将を着く駒が3種類ある(2)という点、立体駒が写実的だった(3)とい
う点を除けば、

ほとんど、今のマークルックと同じ将棋ゲーム

だったという事である。
将駒に貴金属の名がつくものの種類が少ないのは、雲南省大理市で、南詔国
の時代の遺物に、大理国の時代の三塔主塔の遺物のように、さまざまな素材
で、同じ物(仏像や仏塔)を作ったミニュチュアが、今の所発掘されていな
い、というのが、唯一の根拠である。
 恐らく雲南の8×8升目32枚制原始平安小将棋(八方桂等)は、インド
から、チベットを通って直接伝わったため、副官駒を、玉駒からの差を大き
くするような調整は、シャトランジのようには、行われなかったのだろう。
また南詔国も、仏教が厳格な点は、大理国と変わらなかったので、イスラム
教徒は、西暦750~1000年の間も、そこには、ほとんど居住していな
いため、立体駒は写実的だったのだろう。だから、副官駒のルールと、立体
駒が写実的な点が、後のマークルックとは、違っていたのだと私は推定する。
 そして原始平安小将棋と同じで、このゲームの性能は低かったが、前に述
べたように、山岳地帯で娯楽が少なかったのと、写実的で高価な駒で遊べる
ことが、南詔王侯イ族王族の階級トレンドだったので、8×8升目32枚制

原始平安小将棋(八方桂等)は、中国雲南では南詔国の存在と共にほぼ発生

し、唐の玄怪録の時代の数十年前には、既に指されていたのではあるまいか。
 そして、それが日本に伝来する可能性であるが、8×8升目32枚制原始
平安小将棋(八方桂等)は、実存在はするのであるから、日本に伝来する事
が絶対無いとは、当然言えない状況であった。たとえば、中国の文書に記載
されたものが、

日本の奈良時代中期の西暦750年以降、日本で実際に急激に盛んになった
西暦1019年までの約269年間に、散発的に伝来していた可能性もある

と私は私見する。しかし、日本の律令制度が西暦750年から10世紀頃ま
での250年弱の間については、少しづつ崩れてきたとは言え、

藤原氏の所有する荘園が増えて、都で優雅な暮らしをする貴族という階層が
発生

していなかったために、日本では贅沢は皇族に限られ、庶民には、それは高
嶺の花で、存在しても皇族のみが指し、自分に無縁という意識が、平安中期
の王朝絵巻物の時代までは支配していた事。及び”8×8升目32枚制原始
平安小将棋用五角形板駒で兵法を学習して、西暦1019年の刀伊の入寇の
おり等に、外戦で活躍すれば、今度は黄金の、8×8升目32枚制原始平安
小将棋用立体駒で、都で貴族として遊んで暮らせるような身分に、のし上れ
る”、という夢を、国境警備の九州大宰府武士たちに与えてくれるような、

藤原隆家という、特定の一人の人物が、たまたま、まだ存在し無かった事。

以上のために、もともとゲームとしては、たいした事の無かった、8×8升
目32枚制原始平安小将棋は、少なくとも西暦1019年より前には、余り
熱心には、日本人のまとまった人数には、指されなかったのではないかと、
私は以上のように考えるのである。
 なお、原始平安小将棋は、ゲームとしては、たいした事が無かったが、
外戦兵の歩兵が、”と金”という、”藤原道長の側近を連想させる駒に成る”
というルールがあった事と、玉を互いに中盤取り逃がすと、と金で斬り合い
をする将棋になるという、攻め駒の貧弱さ、と、”と金”の活躍、および、
将駒が藤原貴族と類似で、1人ではなくて、どんぐりの背比べで、複数居た
という、

その当時の日本の社会の、縮図のようなものであった

という点が、急激な日本の将棋文化の発生・伸張の、原因になったのだとも、
私は考える。
 以上のように、

日本に今の日本将棋の元になった、8×8升目32枚制原始平安小将棋は、
木村義徳氏の言うように、定説より250年前程度でよければ、早くから伝
来はしていた

と私は考える。つまり、私もある意味、古い伝来派である。しかし、私には、
それだからと言って、日本将棋は古いものであるとの認識が、気分的には起
こらない。原因は、原始平安小将棋と日本将棋で比較すると、相掛かりや、
角替わり戦法が、前者には飛車角が無いため、後者でしか、できないという
点が、一例として挙げられるように、

ゲームとして、同じものとは私には全く見えない

からである。以上の私の、日本の将棋大理駒よりの伝来説の推定ストーリー
が正しいとすれば、中国雲南省でマークルックに近い原始平安小将棋が発生
するのが、西暦750年でも、日本で急激に流行ったとみられる、西暦
1019年の直前の西暦1000年でも、日本将棋の歴史の重みには、さし
て影響は無いと思う。それよりも、

中将棋から飛車角を何時取り入れたのか、定説の西暦1500年頃という説
は、正しいのか。すなわちなるべく早く、成り竜王竜馬の飛車角を、9×9
升目36枚制平安小将棋(持ち駒有り型)へ取り入れる事の方が、ずっと日
本将棋を、皆に重く感じさせる効果は大きい

のではないか。私には個人的に、以上のように考える。(2017/07/17)

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