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藤原道長は、自宅に宝物(金銀製品)は、余り置かなかった?(長さん)

いままで私がこのブログに述べた私説の内容によると、日本の将棋は西暦
1010年年代に、北宋の商人が、藤原道長・頼道親子の何れか用に、玉
将は、写実的にホータン玉でできた将の模型という調子の、大理国産の宝
玉・黄金製の将棋具を、献上したのが、そもそもの発端という事になって
いる。そのため、今までその贈答または献上されたお宝は、藤原道長と頼
道の本宅、京都の土御門第(亭)に、刀伊の入寇の1019年まで保管さ
れていたと見るのが、自明だと考えていた。しかし、藤原道長の日記、
御堂関白記を紹介した、倉本一宏著「藤原道長『御堂関白記』を読む」
2013年(講談社)によると、西暦1016年(長和5年)の宣明暦
7月21前後に、藤原道長・頼道の本宅である、土御門第(亭)は、火事
になって、何と消失しているらしい。この事から、たとえその前に、黄金
の将棋具が藤原道長等へ、北宋交易商人から贈答されて、土御門亭に保管
されていたとしても、火災で1019年時点には、存在無い可能性がある。
ただし火災時、藤原長者の神器である、大饗の朱器という品は、火が回る
前に持ち出されているし、藤原道長が趣味で収集していた、中国の漢詩関
係の蔵書も、同じく持ち出されたと、上記成書の日記に書かれている。よ
うするに、火災の発見から、延焼までに時間差があったようである。ただ
し、黄金製品の類が焼けて、そのとき消失したかどうかは、御堂関白記
には無く、被害状況は、想像するしか無いようである。上記の「『御堂関
白記』を読む」の著者の倉本一宏氏は「自宅が焼けた事に関して、藤原
道長は不思議なほど、さほど落胆していない」と、著書の中で評している。
 あるいは、将棋駒の大きさの金塊22本位では、痛手を感じないほど、
藤原道長には財産が、もともとあるせいかもしれない。が、ひょっとして、
これは、

西暦1016年時点で、黄金の将棋盤等の、”宝物”は、漢詩の書籍のよ
うな「唐物」とは違って、藤原道長は自分の本宅には置いていなかった

可能性も、有るように私には、御堂関白記の解説書を読んで、思えるよう
になった。では、どこに西暦1010年頃に来たはずの、黄金の将棋具が
あったのかと言えば、

天皇の居所である内裏かもしれないと、私は疑い出した。

とにかく黄金将棋具は、表向きは国有財産として、天皇の居所に置いてお
き、藤原道長・頼道等は、自由に使用できる状態にしておけば、自宅に置
くのと、余り差が無いように、私には上の成書をチェックし思えてきた。
何故なら上記成書には、藤原道長は、その前から、その傾向が有るのだが、
西暦1016年に、天皇が自分の孫の、後一条天皇になってからは特に、
自宅と天皇宅・内裏の公私の区別を、余り気にしていないという印象の
内容が、書かれているからである。つまり、天皇の居所は藤原道長の家屋
の一つも同然と言う事である。藤原道長にとっては、”自分も含めて、天
皇家一家や、有力な来客との間で遊ぶ道具”として、黄金将棋具は位置づ
けられたという事ではなかろうか。だが実は、天皇の居所の内裏であるが、

内裏自体も、西暦1016年の道長宅の火災の、2年前の三条天皇の代の
西暦1014年に、別の大火で大破していて、このときは、道長宅と違っ
て、大量の金銀製品が、破損してしまった

事が、web上に紹介されている。そのとき破損した金銀製品を「熔かし
て、再生するように」と、西暦1014年の内裏の大火のときには、ほか
ならぬ、藤原道長が、”その家の者”の立場で指示を出しているらしい。
従って、

黄金将棋具は、天皇の居所に置かれていたが、西暦1014年の大火で、
実際には、消失していたのかもしれない。あるいは北宋商人の、この大理
国将棋具の贈答も、火災翌年西暦1015年に来日した、まさに、

大理国黄金原始平安小将棋具はガチョウと、孔雀といっしょに来たもの

であり、天皇宅の火事の見舞いや、天皇宅に陳列する貴金属製の宝物の、
補充のつもりでの寄贈あって、形の上では朝廷に、献上されたものだった
のかもしれない

とも、上記成書を調べて、私は考え直すようになってきた。すなわち、岩
波新書・河添房江著「唐物の文化史」(2014)には、
西暦999年に来日した北宋商人の曽令文が、決まりを破って10年満た
ない、西暦1006年に再来日したが、1005年にもあった、内裏の火
災で消失した唐物や宝を献上したため、罪が問われなかったとある。これ
は北宋交易商人が、京都の大火の情報をキャッチすると、見舞い品を持っ
て、来日するのが、恒例になっていた事を示していると私は思う。なお、
前記「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、天皇の住まい、居所
である内裏は、その他、西暦960年、976年、980年、982年、
999年、1001年、1015年と、多数回火事になったらしい。
黄金の将棋具が、西暦1019年の刀伊の入寇時点でも存在するケースは、
土御門亭に置いても、内裏に置いても、余り来日が早すぎると火事で消失
して、可能性は少なくなり、

大宰府で、将棋が盛り上がるためには、来日年がほぼ、西暦1015年の
パターンだけのようだ。またこのときガチョウと孔雀を持ってきた、
中国北宋商人は、周文裔(しゅうぶんえい)

であり、この人物についてはweb上で、藤原道長の交易政策に絡んで、
詳しい解説も、出ているようだ。
 なお、少なくとも「藤原道長『御堂関白記』を読む」には、
火災の年の記録の中で、せっかく西暦1015年に贈られた将棋具が、
消失する恐れのある、同西暦1015年の火災に関して、詳しい記載は無
い。火事の被害の規模は西暦1005年と1014年が特に大きく、
西暦1015年のケースは、被害が少なかったので、無視して良いのかと
も、私には読み取れる。
 何れにしても、日本の古代史の常識だったのかもしれないが、

藤原道長の時代に限定して言えば、皇室と藤原摂関家とは同じ家

という話の中身について、最近になって私にも、ようやく理解が出来るよ
うになって、きつつある。(2017/08/13)

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