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太平記11「筑紫合戦の事」少弐直資の将棋盤の描写の意味(長さん)

南北朝時代、西暦1370年頃成立とされる戦記、太平記の11に筑紫合戦の
記載が有り、その中に出てくる九州の豪族少弐氏の統領のものとみられる、

少弐直資の将棋盤の記載

がある。明治時代の古文書紹介集、古事苑類に記載されたその内容は、人名を
webで判りやすくなおすと、およそ、次のようなものと私は読む。

 鎌倉時代の最末期、九州鎮西探題の北条英時は、大宰府の武官、少弐頼尚
(しょうに よりなお)に謀反の企てが有ると知って、配下の長岡六郎を、
少弐の所へ送って様子を調べることにした。
長岡は、少弐頼尚との面会を申し込んだが、”立て込んでいる”と、言われて
断られた。長岡はがっかりしたが、代わりに少弐頼尚の息子で、筑後の国の、
少弐直資(しょうに なおすけ)の様子を見に行くことにした。
(中略)長岡は、少弐直資に対面した。そして座席につくなり、”思っても
見ない奴らの、裏切りだ”と、怒鳴ったかと思うと、刀を抜き、少弐直資に
向かって飛び掛った。しかし少弐直資は、元来機転が効く人だったので、傍ら
にあった将棋盤を、さっと取り上げたかと思うと、即座に、長岡の突いた刀を
それで受け止めた。そのため少弐直資に、長岡の体は引き込まれて、両者、体
を押し合い、睨み合いになった。すると更に少弐直資は、手にした将棋盤を、
上を下へと振り回し、長岡の刀のきり返しに掛かったのであった。

以上、余り自信の無い古文の現代語訳なので、詳細は原文等を参照されたい。
 さて、上の文面から、以下、少弐直資の将棋盤が、どのようなものである
かを推定して、それから何が判るのかを、考えてみる。回答を先に書くと、

南北朝時代には、恐らく9×9升目36枚制平安小将棋用の、江戸時代の将棋
盤並みに、厚みが厚いものが、武家の統領には所持されており、比較的、小将棋
が優勢であった

という事が判ると思う。ただし、少弐直資が実際に、上記で述べた性質の、
将棋盤を所持しているというよりは、太平記の作者が、西暦1370年頃に、
武家統領の将棋盤とは概ね、上記のようなものであると、イメージしていた、
というのが正確であろう。ちなみに、少弐氏は元来、駒数多数将棋の藤原氏系で
ある。
 また将棋盤が、今述べたように、全体として、四角い木の切り株の、塊の
ようなものであるというのは、

小型でなければ、重くてとっさに取り上げられず、盾の代わりにはならない事、
厚みが無ければ、刀が通ってしまい、刺客に即切られると見られる

から判るのである。太平記の作者がイメージしている将棋盤は、従って、戦国
時代初期の”厩図”に描かれたような、薄い盤ではないと私は思う。なお、
南北朝時代作の教科書、異制庭訓往来には、
”将棋は合戦を模したものであり、小さい将棋は36の獣の序列に基づいており、
大きな将棋は、360の暦の1年日数に則り、将棋で兵法を知る事の無い将は、
合戦に勝てずに滅びるものである”
と言った旨の事が書いてあったと、記憶する。少弐直資の、取り上げた将棋盤
は、太平記では、少弐氏の統領としての、彼自身の宅の客間の、有力な部屋飾り
といった、設定なのであろう。
 なお、まもなく室町時代に入り西暦1400年を過ぎると、小将棋より中将棋
が、にわかに盛んになったと見られる。よって、普通唱導集大将棋から中将棋へ、
駒数多数将棋が移行する境目に、小将棋が上流階級の社会で、比較的堅調であっ
た時期が、恐らくあったという事が、これから推定できると、私は思う。
 既に述べたように、この時代に指されていたと見られる、標準平安小将棋持駒
有り型は、依然”後手まね駒組みによる仕掛時の行き詰まり”が、解決されては
いなかったとみられる。しかし、将棋が兵法と見られていたために、上流階級の
家には、江戸時代の大名の娘の、婚礼用の三面のボリュームに近い将棋盤が、
既に普及していたと見られる。そのため小将棋の伝統は、それゆえに文献等にも
残り易く、混乱の南北朝時代を境に、日本将棋の源が途切れる事も、従って
無かったであろうと、私は考えるのである。(2017/09/26)

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