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なぜ黄金の立体駒で9×9升目36枚制標準平安小将棋は作られなかったか(長さん)

既にのべたように、西暦1015年に北宋の交易商人、恐らく周文文裔・周良史
親子によって、駒が貴金属製で立体かつ写実的な、8×8升目の原始平安小将棋
の将棋具が、九州大宰府経由で、結局京都三条天皇の居所の内裏にもたらされた。
そして、西暦1019年の、刀伊の入寇のすぐ後に、藤原隆家がなんらかの形で、
それと接触した事により、大宰府から、代用品、経帙牌に駒名を印字した、同じ
ルールの将棋が、急速に普及したのが、日本の現在の将棋の起源と考えられる。
そして常識的には、玉将がホータン玉を彫刻した将軍人形の駒、金将が純金地金
を彫刻した将軍人形の駒、銀将が銀の地金を彫刻した将軍人形の駒だったとみら
れる、西暦1015年製の輸入黄金将棋具は、しばらく朝廷の内裏に、保管され
ていて、側近貴族等の目には止まっていたとみられる。
 そして、それから時代は少し下って、西暦1080年の白河天皇の代頃に、
大江匡房等の働きかけにより、朝廷でイベント等として指される、御前将棋が、
8×8升目32枚制原始平安小将棋より、9×9升目36枚制標準型平安小将棋
へ、切り替えるようにされたとみられる。このときもし、それに伴って作成され
た朝廷で指される将棋具が、三条天皇の時代(西暦1015年当時)と同じく、
上で述べたような、中国雲南省の大理国から輸入された、黄金立体将棋具の国内
生産品であったなら、現代にも記録が伝わるほど、著名であっただろう。しかし
ながら実際には、後三条天皇や白河天皇の時代(西暦1060~1080年頃)
に、そのような、宝物の将棋道具を、朝廷が保持していたという形跡は、今の所
発見されて、い無い。恐らく、西暦1080年頃の朝廷の御前試合等で行う、
標準型の平安小将棋も、現代と同様、経帙牌型、つまり五角形の木製の将棋駒を
使う形になっていたものと思われる。むろん黄金の立体駒製作には、莫大な費用
がかかるとみられる。しかしそれにしても、西暦1080年頃の皇室に、それが
絶対に準備できないとは、一見して考えにくい。なんらかの理由があり、
西暦1015年型の立体駒将棋具の、国内生産による同等品の作成は止めて、
その頃には既に普及していたとみられる、五角形木製駒の将棋具に、代えた理由
が存在したと思われる。では黄金将棋具を朝廷が、西暦1080年頃に、自力で
作成しなかった理由は、いったい何だったのであろうか。
そこで次にその回答を、まずはずばり書くと、

王将という駒が、作成した立体宝物駒で、充分に表現できていないという噂が
世間にたつのを、朝廷が恐れたため

だと私は考える。なお王将は、実際の国の政治を動かすのが、藤原長者という
イメージを嫌い、初期院制派である大江匡房らが、玉将と、取り替えようとして
作成した、翻訳駒ではない、最初の国産の駒と私は見る。簡単に言うと、従来は
金将や銀将同様、

玉将も、材質のホータン玉が、将であっても玉将である事を示してくれていた。
だが、これを王将に代えたので、天皇の息子が鎧兜の姿で、武将の大将になった
とのイメージの王将というキャラを、材質ではなくて、意匠(人形の形)で表現
しなければならなくなって、将棋駒のような小型の場合は、それに頓挫した

のであろうと、私は考えていると言う事である。
 むろん、西暦1080年頃に、天皇の御前で試合をする際の、有力将棋棋士は、
地方の国府の役職者等で、将棋を指すのが、うまい人間という事になり、皇族の
宝物に手を付けるには、やや格下だったという事もあったのだろう。刀伊の入寇
で、女真族を追い払って手柄を立て、都の貴族生活に返り咲いた、藤原隆家が、
後一条天皇や藤原頼通が見ている前で、将棋を指す程度なら、宝物を使わせても
よかったのだろう。が、某下野の国の介といった身分の人間に、黄金の将棋具を、
触らせたくは無かったという事も、朝廷側としては、あるいはあったのかもしれ
ない。しかし、それ以上に、「皇室に置かれた将棋の駒のうち、王将と言われる
駒は、何故ソレが王将なのか、形を見ても、よく判らない」という、朝廷の備品
に対するネガティブイメージの噂が、都で囁かれるほうが、朝廷には、打撃が大
きかったのではなかろうか。なぜなら前者の場合は、破損や紛失が無ければ、
実害は無いが、後者では、大江匡房等、初期院政派にとって、つごうが悪いばか
りでなく、皇室の権威が低下するからである。
 よって西暦1080年頃になると、五角形駒を使う、日本の将棋は、興福寺
出土駒を見ても明らかなように、普及していたとみられることから、院政派は、
普通の将棋具で、材料は一級品を使って、我々には普通の将棋道具の高級なもの
に見える、皇室使用の将棋具を作ったに違いない。その結果、これをもって
西暦1080年頃

日本では立体駒の平安小将棋が、完全に終焉したのだろう。

 そのあと、藤原長者が恐らく後ろ盾になり、13升目制の平安大将棋が
西暦1110年頃作られ、藤原頼長が棋士となって、西暦1140年代に、
崇徳上皇の御前で、指す事になったのだが、

大将棋も貴金属製の立体駒で作成された事は、基本的に無かった

と私は見る。理由は、たとえ財力で、玉、金、銀、銅、鉄製の、おおかた宝塔の
形で、各将駒を表現した、黄金の平安大将棋具を作る余力が、藤原貴族に、
西暦1110年頃有って、一度位は製作が試みられたとしても、

院政派が五角形の将棋具で作った、標準型平安小将棋に対抗するのが、
摂関貴族残党の本来の目的であるなら、道具を別系統にする理由は、基本的
には、特には無い

と、私は思うからである。その結果、13升目制平安大将棋でも、形により、
駒名を現し難かった、横行、奔車、注人等も、五角形の駒に名前を字で書くこと
により、なんなく表現できたという訳なのであろう。(2017/09/29)

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