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古代雲南将棋。インド・マウカリ/バルダナ~南詔間は陸路か海路か(長さん)

本ブログで以前、インドで600年頃発生した2人制チャトランガは、
南詔へ8世紀までには伝来し、中国唐代に、玄怪録の、将棋の話の
疑いの強い怪奇物語の、下敷きの将棋となったとみている。そして、それは
現在の中国の雲南へは、茶馬古道で伝来したのだろうと述べた。これは、
通説の海路とは異なる。そもそも通説は、日本への伝来元が、大理国で
はなくて、東南アジアの、たとえばカンボジア王国が有力視されている
ので、経路が合わないのは当然である。また、北インドから雲南へは、
陸路のほか、ガンジス川を下って、現在のバングラデッシュへ出て、
一旦ビルマまで海路を通って、西暦800年前後には、南詔の植民地だ
ったとされる驃国(ぴゅーこく)を経て、南詔に入る手もある。成書に
”駒として舟があるかどうかで、判定できるかもしれない”という記載
がある。が、個人的には無理だと思う。私が、大理国の将棋の影響を
受けていると、個人的に見ている、タイのマークルックには舟駒がある。
また、岡野伸さんが、歴史を自費出版の冊子で紹介している、ミャン
マーのシットゥインは、スリランカ経由で迂回して、タトンまで海路。
ついで、バガンまで陸路だという伝説があるというが、戦車があっても
舟は無い。なお、シットゥインの、タトンからバガン伝来は、バガン王
国が強まった西暦1050年で、日本では興福寺出土駒の時代なため、
そのとき伝来した、原始シットゥインが、日本の原始平安小将棋には、
なりにくいようである。さてでは、舟駒が有るのと無いのとの差だが、

私は、河川を航行する舟が多数存在する地域では、舟駒が発生し、山を
背にした港町から広がったゲームには、車のままの状態が残る

のではないかと、個人的にはイメージしている。相手の領地を、舟で喰
い荒らせるような戦いのできる地域で、戦車駒を舟駒に、交換しても
良いという発想が生まれたときにのみ、二人制チャトランガの戦車は、
舟に変化するのではないだろうか。
 従って、舟の有る無しは、到達した国の地形にのみ依存するので、そ
のゲームが途中、何処を通ってやってきたのかに関して、余り有力な
情報を、本来残しては、いないような気がするのである。だから、冒頭
のインドから南詔までの経路は、チベットには象棋の類が無いというの
なら別だが、そのような事も無いので、茶馬の道の交易とともに、チベ
ット経由で、中国奥地の雲南に、伝わったのかもしれないし、ガンジス
川を下って、一旦海に出て、バガンやミャンマー経由かもしれないし、
ミャンマーの前に、スリランカを経由しているのかもしれないし、少な
くとも複数の経路が、実際に存在する事は確かだが、どれが正しいとも
言えないと、今の所考えている。(2017/10/19)

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