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平安小将棋へ飛車角導入。普通唱導集大将棋時代に無かったのは何故(長さん)

このブログのこれまでの議論によると、9×9升目36枚制標準タイプ
平安小将棋に、後手真似駒組みによる仕掛け直前行き詰まりが、ずっと
存在し続けたことになる。他方、普通唱導集の大将棋部分より、西暦
1300年の鎌倉時代後期には、飛車が存在した事は確実であり、本ブ
ログの仮説が正しければ、角行も存在した可能性が高い。その時代の
大将棋の飛車・角の成りが今とは違うとしても、標準タイプ平安小将棋
へ、それを今と同じ位置に導入すれば、問題は一応解決したはずである。
 では、1300年には飛車角が有るのに、導入されたのが1500年
近くになってからなのは、いったい何故なのであろうか。回答を先に書
くと、

9×9升目36枚制平安小将棋は、新安沖沈没船出土駒の時代、鎌倉
末期までは、指される頻度が、比較的少なかった

からだと私は思う。すなわち、

対応する将棋盤が、皇族や貴族等、一部の人間の所有に限られ、それの
無い将棋指しは、布に8×8升目の盤型を書いて、8×8升目32枚制
原始平安小将棋を指す事が、鎌倉時代には多かった

と、私は見ているのである。この見方は、鳥獣戯画の将棋が、9升目制
であるかどうか、疑問である事、冒頭で述べた、普通唱導集の小将棋の
第1節が、行き詰まりの無い、8升目原始平安小将棋の、歩兵進みの自
由さを唄っているように、私には見える点からみて、今の所、大きな矛
盾が無いと私は見ている。むろん、藤原定家の日記に出てくる将棋盤や、
後鳥羽上皇の御前で指された、桂馬や歩兵を落とす駒落ち将棋は、基本
9×9升目36枚制だったのであろう。それらの将棋には、ゲームとし
て難が有ったので、皇族等が問題視し続けたことは、確かなのだと思う。
 しかしながら、宮中以外の所で、大衆が指す場合、9升目制に難が
有るのが、棋士にわかっていたなら、一般人は8升目の、原始平安
小将棋を指せば、それで良かったのではないかと、私は素朴に考えるの
である。少なくとも鎌倉時代前期の小将棋界は、概ねそのような状態だ
ったのではないのか。
 それに対し、蒙古来襲以降、交易が盛んになり、大陸から聖目が升目
を同じ数で区切る盤の、賛美性が伝来すると、それまで限られた階層に
しか所有されなかった、いまでは100円ショップで手に入る、3段目
に4つ聖目が付いた、今ではありきたりの将棋盤が、そこそこ、いろい
ろな階層に普及していったに違いない。その根拠としては、太平記の将
棋盤の出てくる場面などが、挙げられると思う。そして、南北朝時代の
末期、西暦1380年頃になってやっと、8×8升目制の小将棋は、
普及した将棋盤と、形が違うという理由で、標準的な9×9升目36枚
制の平安小将棋に、一般にも、ようやく置き換わったのではないのだろ
うか。そしてその時代は同時に、4升目ごとに、聖目で区切ると指せる、
12×12升目92枚制中将棋の発生、勃興時期でもあった。だから、

結果として飛車角の導入は、大将棋からではなくて、たまたま中将棋
からに、なった

のだと私は考えるのである。
 以上のように、9升目制標準平安小将棋の問題に、誰もが困るように
なって、結果的には初めて、対策が試行され、結果として40枚制の
現行の日本将棋が、かなり遅くなって、ようやく生まれたのではないか
と、私は今の所、ざっくりとは以上のように考えているのである。
(2017/10/22)

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