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埼玉県美里町広木上宿遺跡五色宝塔。形状2種だが大将棋の駒関連か(長さん)

以前、日本に現存しない立体駒を連想させる物として、埼玉県児玉郡美里町
広木上宿遺跡、廃寺跡出土の、純金・純銀・銅・鉄製のミニチュア五色宝塔
について、このブログで言及した事があった。実際には、玉、金、銀、銅、
鉄の大将棋五将駒ではなくて、金、金銅、銀、銅、鉄の五色仏宝塔が、発掘
されている。なお色の違いについては、この仏具を使って法要の対象となる
仏に大将がおらず、武蔵武士のように、小集団でばらばらの軍隊の、比較的
有力な者が、拝まれる仏様であると考えれば、説明が付くとした。
 さいきん、紹介した㈱さきたま出版会の成書、埼玉の遺跡、執筆者:山本
靖、2000年とは別の本でも、この遺物の紹介がされているのを見かけた。
そこで、それがきっかけで、今述べた、埼玉県埋蔵文化財調査事業団の、
山本靖氏の文面を、数回目だが読み返した。その結果、本論のほぼ最初に、

宝塔のうち、金、銀、金銅と、銅、鉄とで3対2で形態が分かれ、前三者は
法華経の見返し絵の宝塔型、後二者は五輪塔型であって、形が別である

と書いてあるのに、気がついた。
 大将棋の将位駒は全部形態が一緒の、五角形である。しかし、美里町広木
上宿遺跡の寺院跡出土の五色宝塔は、形態が3対2の2種類に分かれる。
この事実は、

大将棋の駒と、埼玉県美里町のミニチュア五色宝塔とを関連付ける上で、
矛盾しないのであろうか。

以上が、今回の論題である。
 そこで回答をとっとと書くと、矛盾していないと、私は思う。なぜなら
この宝塔を埋葬された当時も、将棋には大将棋の他に、

将の色が三色の、小将棋が存在していた

からである。
簡易的に、この宝塔を使って法事をするときには、大将棋形式ではなく、
小将棋形式でも出来るように、金、金銅、銀と、銅、鉄を分けて、2系統
とし、銅と鉄の宝塔を、簡易式では使わない、不公平感覚を、遺族に残さ
ないように配慮するために、こうしたとして、説明が出来るとみられる。
 むしろ、玉、金、銀の小将棋の将駒にもなぞらえられるように、法華経
の見返し絵の宝塔が、金、金銅、銀の3色に限定されているのであって、
3:2が大事で、2:3とか、銅まで入れて4:1の2種類等に、なって
いない事から、当時のルールでの将棋との関連性が一層疑われる
ように、私には思える。
 上記で紹介した文献とは別の今回たまたま見た文献にも、宝塔の図が
あり、底面がほぼ正方形、一辺が、錆びて膨張した鉄製の宝塔以外は、
どれも2cm弱である旨が書いてある。この断面形は、たとえばチェス型の
方形盤に、極めて良く適合したものである。だからこの5品の他に、チェス
のナイトやルークまたは戦車駒のような形の駒が、仮に共出土していたなら、

”これらが平安大将棋系の立体駒の一部とみられる”と結論されて当然の形

であると、改めて感じられた。材質が、通常のそれに比べて、飛びぬけて豪
華だが、タイのマークルックの駒と、意匠の類が同じである。なお別書には
”出土品の年代は、絞り込みが難しく、手かがりは、

廃寺の瓦が14世紀という事だけ

である。”と、さきたま出版会本と同様に、書かれていた。何か残念そう
だが、逆に14世紀で、付近の住人の法事用で間違いないとすると、

将棋関連説にとり、むしろ全く好都合

である。つまり、
本庄市付近の武蔵武士の児玉党などは、南朝側に加担して負け組に転落す
るなどし、14世紀のこの100年は、全体としては、埼玉北部の武蔵武士
にとっては、景気が悪い、活路を求めて全国に、拡散弱体化一途の世紀だっ
たと、私は聞いているからである。そして大切な点は、その例外が、
1382年の第3次小山義政の乱での、白幡一揆構成員としての、決定的
な活躍と、勝ち組としての隆盛だけに限られ、よって

彼らに”黄金の法事”が可能な年が、西暦1382年頃の、
小山義政の乱での、鎮圧軍としての勝利に、ほぼ絞られるのではないか

と、私には個人的に認識される点である。そうすると、小山市上鳥谷曲輪
出土の、裏一文字金角行駒という、大将棋かまたは、より複雑性の高い、
ゲームの出土駒と、この五色宝塔が、藤原左馬介義政と名乗る、小山義政
という人物を主軸に、ぼんやりとながら関連してくる、という事になる。
 つまる所小山義政は、普通唱導集大将棋のルールを熟知し、恐らく道具も
所持していた。そしてその内容を見聞きし、児玉郡美里町に南北朝時代に
在住していて、

白幡一揆に加わった武蔵武士の有力武家は、己や仲間を大将棋の駒に見立て、
仲間で戦死した者を、賠償金や報奨金で作成した宝塔により、金将、銀将、
銅将、鉄将として弔った。それが、たまたま出土したという事になる

のではあるないか。

またその他としては、猪俣百八燈を創設

して、108枚の普通唱導集大将棋の駒に見立てた戦士を弔う、今にまで
伝わる行事を、後世に残すという事をしていたのではないか。私に言わせる
と、ようするに以上がメカニズム、すなわち答えとなるような、

”五色宝塔と猪俣百八燈の謎”

の解明が、廃寺の瓦の年代が判るだけでも、2つ同時に、いっきに近づいて
きたと、感じられるようになったという事である。(2017/11/15)

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