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大局将棋の最終成立時期は、やはり幕末なのではないか(長さん)

以前私は、江戸時代の将棋の者の家、大橋家から発掘されたと聞く、
大局将棋の最終成立時期は、江戸時代に成立年号の有る、将棋の本、
松浦大六氏所蔵、象戯図式に記載されていても、それは明治以降の
加筆であり、最終成立時期は、幕末の頃であろうと述べた。
 大局将棋には、砲、弩、弓といった、七国将棋系の駒が存在する
ので、早くとも1750年以降、徳川家治の時代ないし、その後の
時代の成立は、間違いないと私は思う。将棋界の恩人と言うべき、
第十代徳川将軍の徳川家治は、大橋家の棋士に奥御用を授けて、
多額の謝礼金を銀貨で与えている。そこで、将軍の御傍に置かれた
との誉もあり、かつて豊臣秀次に気に入られた、水無瀬兼成になぞ
らえて、泰将棋の継続としての、大局将棋の製作を、徳川家治の
時代になって、少なくとも大橋家内部では、始めていたという話
は、充分有り得る事かもしれない。しかしながら、大橋文書、
大局将棋初期配列・駒のルール図として成文化される所まで、同時
期に出来たとは、必ずしも言えないのかもしれない。最初はせいぜ
いルール集のメモ程度の物を、後継者に残していたのではなかろう
か。
 というのは、将棋種類の中に、銅車の成りに、銅象という駒が、
存在するからである。銅象は、いうまでも無いが、銅像のシャレ
であろう。しかし、

銅像は明治時代になってから、現在の意味で、盛んに使われた単語
である。

なお、大局将棋の駒名をチェックしてみたが、江戸時代に成立する
かどうか、

怪しい駒名は、大局将棋については、”銅象”が唯一

のようである。比較的大きな現代語辞書によると、今使われている
銅像の意味で、銅像が使われるようになったのは、欧州に派遣され
た幕末の人間が、現地の銅像を見てからのようである。なお、web
には、その中の人間が、胸像を見て「晒し首のようだ」と、異文化
感を吐露しているとされる。

その前の近世までは、”銅ノ像”という意味で、銅製の仏像を表現
するときにだけ、銅像と書いてあるように、私の見た古文書が、私
には、今の所全部読める。

つまり銅像という単語が、少なくとも辞書で引用されている、近世
以前の古文書に、確かに存在するようには、私には見えないと言う
事で有る。ただし、1750年頃の、大局将棋の作者が、銅ノ像を、
銅像という名詞と解釈して、銅象という駒を、大局将棋の銅車の成
りとして、絶対に作らなかったとまでは、言えないのかもしれない。
 個人的には、金車、銀車、銅車、石車、木車・・・と、車駒を並
べて、その成りを観察してみると、銅車の成りは、西暦1750年
の頃には、別の、より意味を取るのが難しい、遊母鳥、鴻翼と、
歩振鳥、風鼈の間に来るのに、相応しい名前が有ったようにも見え
る。だがその名前が、余りにも難しすぎて、幕末には大橋家の子孫
にさえ失念され、単純に銅象に置き換えられたのかもしれないと、
一応本気で私は疑っているのである。なお蛇足だが、大局将棋では、
右車と左車に成り駒を作り、それぞれ右鉄車、左鉄車と名づけて
しまったので、鉄車という駒だけ無い。議論を元に戻すと、単純に、
明治時代からの言葉のように見える、

銅象という駒が有るのは、単にその一種だけ遅れて作られただけ

かもしれないのだが。以上の点を根拠に、私は大局将棋は、徳川
家治の時代から幕末までの間に、順次部分が作られ、ひょっとする
と幕末になって、ようやく完全成立したのではないかと、今の所
銅象たった一つが根拠だが、個人的には疑っていると言う事である。
(2017/12/07)

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