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室町時代1424~25年、四代将軍足利義持御前将棋の奔王出勝ち(長さん)

将棋の古文書の記録で、室町時代の花営三代記の1424年1月と
1425年2月の、奔王を相手方に出すことによって勝つ”将棋”の
記録は、割と有名である。時代は、中将棋が流行りだした頃であり、
この”奔王が相手方に向かって、出た方が勝った将棋”は、恐らく
中将棋の類であろうという考えが、有力であると私は認識する。
 しかし、前にも述べたが、中将棋の場合、奔王の状態と、相手玉が
詰むかどうかという点には、余りはっきりとした、相関は無いように
も思える。そもそも、”奔王を相手側に出して勝った”というのは、
どういう局面を指すのかも、これでは全くはっきりとしない。今回は、
前に”ローカルルール”であろうとは述べたが、上記のはっきりしな
い、この室町将軍足利義持時代の、お城将棋の正体について、

奔王を出して勝つとは何者で、何故そうしたか

を、論題にしてみた。
 そこで、まずは結論を、何時ものように、とっとと書くことにする。
奔王が相手陣に入り、かつ次の手で、相手が、攻め方の奔王を直ぐには
取れない状態を、奔王を出したと、言ったと見られる。次に、相手は
入ってきた、攻め方の奔王に駒を当てて、奔王取りを掛けた。すると、
攻め方が、奔王を相手陣の中に、保持できず、いったん引いた場合は、
ゲームを続行する。しかし、別の敵陣内の升目に移動できる場合は、
敵陣内を荒らしながら、逃げ回ることができる。その場合、守り方は、
相手の奔王が陣内に居る間は、奔王取りを掛け続けなければならない。
奔王取りが掛けられなくなったら、攻め方の”奔王出し(て安定)勝ち”
とする、というルールだったとみられる。つまり、相手陣の4段目に、
奔王を突入させ、自分の手の所で、更に動かさなくても、取られない
ようにできた、つまり静止できれば、それで勝ちである。中将棋の
奔王は不成りだが、仮に成れるとすれば、”奔王成って(安定)勝ち”
と、言えた所だろう。

つまり、ちょっとヒネッた、トライルールの一種と私には推定された。

ついで、それで勝ち負けを決めた理由は、

だらだらと将棋を指した挙句の果てに、引き分けになるのを防ぐため。
ほぼその一点にすぎない。

つまり必ずしも、先に奔王に入り込まれた方が、玉が薄いかと言うと、
完全にそうでも無く、審判が室町幕府でなかったなら、負けた方から、
しばしば不満が出るルールだっただろうと、思われる程度のものである。
ようするに形式上、単にそれで、勝ち負けを、たまたま決めるルールに
したのだろうという事である。
 中将棋で中盤になると、攻め合えば、どちらも陣が乱れて、相手駒が
侵入できそうな状態になるのであり、奔王が取られて居無いか、あるい
は、鳳凰が残っていさえすれば、中将棋ではそのうち自然に、相手陣
内に、奔王が入り込み、居座るようには、なれるとみられる。従って、
そのとき勝ちと、そのように決めておけば、中将棋の勝負は、中盤に入
れば、じきに勝負がつくはずである。ようするにお城将棋で、将軍等に
飽きがこない程度で、勝負が終わるようにするため、特別に決めていた
にすぎないように思う。実際に、奔王を大事にする中将棋を、試しに駒
を並べてチェックしてみて、以上が私の得た知見である。
 今回私の場合、これには、何かきっと裏があるのだろうといろいろ考
えて、幾ら考えてもわからないため、とりあえず駒を並べて、中将棋を
チェックしてみた。そして結局、こんなものだろうと言う事で終わった。
つまりこれは、単純に、途中で指し掛にする口実を作るための、特別な
ルールであり、棋士の将棋の寄せの巧みさを、将軍足利義持が特に、興味
を持っているわけでもなかったので、将軍等を不愉快にさせず、勝負を
適当な所で切り上げるためというだけ事ではないかと、私は思うように
なったのである。もっとも、最後は、守り方の奔王取りの手が、切れる
かどうかで、多少は座が盛り上がるだろうから、観客の見所は、多少は
あるようだ。
なお、

形勢有利な方が、先に”奔王を入れられて居座られ”を喫した中将棋
は、そのまま続けると、終盤意外にこじれることが多い

ような気もした。このローカルルールを考えた人間には、何か魂胆が
もともとあったので、そうしたのではなくて、何十年も中将棋を指して
いるうちに経験的に、こうすると勝負が、納得感が比較的残って、かつ
早くつき、1424年宣明暦1月2日のように、中将棋が、一日に11
ゲームも出来る事に、あるいは、永い年月かけた、純粋な経験に基づい
て、気がついたのかもしれないと、私には、この事からは思えるように
なってきた。なお、以前私が示した、この史料の訳で、「奔王を出して
勝ち」を、個別の対局の状態を指したもので、あるかのように書いたが、
多分誤訳だ。正しくは、

その日の対局のルール条件を、日毎に、書いている

のだと思う。なぜなら、11局のうち2局は、9勝側の勝者(貞彌)
ではないからだ。つまり、1424年1月2日と、1425年2月
7日の中将棋は”お城将棋が、奔王出し勝ちルールだった”という意味
だろう。
 それに対して、1424年1月3日の元行と貞彌の対局については、
説明がない。ひょっとすると、両人の前日1月2日の11局の指し掛け
早指し将棋が、「あっぱれ」と、足利義持にほめられ、特別に普通の
中将棋が、終局まで、指されたのかもしれないとも思われる。
(2017/12/10)

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