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平安大将棋の猛虎と飛龍。元は四神か十二支か(長さん)

仮説13升目108枚制普通唱導集大将棋の説明で述べたように、
”この将棋に、牛、虎、龍、馬、猪駒が有るのは、平安大将棋に、
猛虎、飛龍、桂馬がある事の拡張のため”が、本ブログの説である。
 ところで、このうち馬駒が有るのは、全世界の将棋類で、全部
有る為として、平安大将棋の残りの猛虎と飛龍は、十二支の中で、
馬より強そうなのが、龍と虎だったから、有るようにも見えるし、
四神、白虎、青龍、玄武、朱雀のうち、兵器になりそうなものが、
前二者だったため、それだけ残したようにも見える。後世、どち
らにも取れると、少なくとも解釈したから、大将棋に猛牛や嗔猪
が入ったのであろうが、もともとは、どちらだったのだろうか。
 この点についても、本ブログではブログを開設した当初に、見解
を述べており、

四神の方だろう

と、している。理由は、中国の北宋広象棋を、平安大将棋を作成する
ときに、ある程度参考にしており、その中に、

四神は有っても、12支駒は無いのではないか

と考えているからである。根拠は、

中国王朝内部で、唐、宋、元の各王朝の頃に、日本のような十二支
信仰があったとの証拠となる、出土品が有ると言う話を、今の所、
私が察知して居無い

ためである。銀で出来た像として、雲南博物館の金翅鳥の象が、私
の場合、直ぐに思い浮かぶ。だから晁無咎が作成したとも、晁補之が
作成したとも私の聞く、中国宋代の19路とみられる広将棋には、
金翅鳥の類の鳥の神様の駒はあるだろう。だがその他の、新たに加わ
る駒としては、碑、偏と言った、軍事的な階級を示す駒と、砲、弩、
弓、刀、剣と言った、武器を意味する駒しか、シャンチーに対して、
加えられては、い無いだろうと、そう想像(空想)している(だけの)、
状態である。なお、少なくとも現在、北宋広象棋に関する情報は、
たぶんほぼ、どこにも無いと、私は認識している。
 むろん、中国にも十二支はある。しかし、駒数多数象棋の中に、
馬は、元から有るので別として、それらを持ち込むような

十二支(動物)信仰が、少なくとも政権を担う皇帝の周囲のような
上流階級には、日本の貴族のように存在はしない

のではないだろうかと思う。十二支信仰は中国の唐~元代は、高々民
間信仰のレベルのように、私は今の所予想している。なぜなら、子丑
寅卯辰巳・・が、冬春夏秋の、季節の移り変わりの風物から生まれた、
順番を示す漢字である事を、漢字を母国語とする代表の中国唐~元
代の知識人なら、皆知っており

中国の知識人にとって十二支は、数詞の類と正しく認識されていた

はずだからである。つまり、鼠牛虎兎龍蛇・・・が、子丑寅卯辰巳・・
を理解するための、身近な名詞への、単なる置き換えに過ぎないこ
とを、中国宋代の19路とみられる広将棋を作成したほどの、知識
人の、晁無咎なり、晁補之なりが、知らないはずは無いという事で
ある。

つまり、そもそも彼らには鼠牛虎兎龍蛇・・が、将棋駒に加われる
ほど、大それたものであると、考える理由が何もない

と言う事だ。そして、晁無咎なり、晁補之なりが19升目の中国北
宋広象棋を仮に作成する際には、日本の陰陽道師のように、大将棋
に、12支駒は加えない代わりに、桂馬を八方桂には、しただろう。
つまり、イスラムシャトランジの、将棋は日月惑星の動きにちなむ
を、惑星学的な意味に解釈することが、当然出来たのだろう。そし
て、彼らにこの能力が存在する理由は、日本の古代末~中世の時代
にも、中国歴代王朝には、暦を改良する能力が保持されたからだと、
私は考える。ようするに、

中国の知識人には、唐、宋、元代、夜間天球上に、恒星と惑星が見
えているのを誰もが理解していたが、日本の藤原摂関の長者は、少
なくとも、そういった惑星観測の世界に、興味そのものが無かった

という事実が根本問題として、有ると思う。藤原摂関長者が、惑星
学に関して、無知だったという証拠としては、

藤原道長の日記に、藤原一族の上層部が、ある年の宣明暦7月7日
に、こと座アルファー星と、わし座アルファー星が”天球上で移動
し、接触するのを仲間が観測した”と称して盛り上がる記事が有る

点から見て、明らかである。むろん当時の日本の天文博士が、中国
製の星図を持ち、普段は恒星の配列に変化が無い事。新星や超新星
が現われたときには、朝廷や藤原摂関に、報告する事になっている
という事に関する知識を、藤原長者は、役目上知っていたはずであ
る。長者がどうかは別として、鎌倉時代に入ると、藤原氏貴族の一
部、たとえば、藤原定家が、超新星に興味を持っているとの証拠が、
明月記から出てくる。しかし彼らは、少なくとも平安時代末には、

恒星という概念には、余り興味が無かった。ので、何がどうなって
いるのかは、そのうち忘れてしまっただろうし、恒星の他に陰陽師
がしばしば話題にする、惑星があり、その天球上での動きは、独特
である

という論を、日本のきらびやかな貴族文化の中に於いて保持は、特に
していなかったのだろう。そのため、平安末の院政期に、恐らく中国
から、将棋の駒の動きは、「日月惑星の動きに因むべきものである」
という、水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄で冒頭に書いている
”イスラム天文学思想”が不意に流入したとき、彼ら摂関派がした事
は、それならばと、

平安大将棋の原案作りを、陰陽道師に”まるなげ”した事だけだった

と、私は個人的には、予想するのである。他方陰陽道師の心の中では、
合戦の中にも、神が兵士と共に交流し、助けたり妨害したりするとい
う、現代社会では”代表的迷信(世界大戦に於ける精神論)”とイメー
ジされる概念が、平安末院政期には、別に中国人に問い合わせなくて
も、自分で作れる程度に”日本人の心の文化”として、充分確立して
いたと見られる。そこで陰陽道師が平安大将棋の原案を、中国広将棋
の19升目型で、たまたま作成したときに、中国流に、四神を加えて、
藤原頼長等に上奏しただろう。がそのほかに、八百万を神に仕立て上
げる、日本の陰陽道師らしく、動物としての十二支を入れた第2原案等
も作成していたとしても、余りおかしくはないように、私には思えるので
ある。
結局その第二原案の

12支駒を、大将棋の駒類の中に入れるという思想は、直ぐには平安
大将棋としては採用されなかった。が後々、普通唱導集時代の
大将棋に、猪駒等の十二支駒が入る遠因になったのかもしれない

と、私は思う。つまり、
もともと”将棋の駒が日月惑星の動きに則る”とは、アラブのシャト
ランジでは、馬駒を、前後対称の八方桂馬にルールを変えて、火星の
ように、動くようにするのが目的だったのだが。暦博士との関連の
強い陰陽道師に、日本の大将棋を作らせた結果、地球の公転運動と、
月の地球の周りの周回運動の問題だけが、クローズアップされた、

暦に関連する十二支駒の含まれる大将棋を、生み出す結果になった

という事だと思う。なお将棋史研究家の増川宏一氏は”平安大将棋こ
そ、日本独自の将棋文化の基点”と、確か将棋Ⅰ等で述べられている。
惑星天文学の暦学へのすり替えが、この日本独自遊戯文化の発生原因
と私は見ているため、この独自文化に、”賞賛すべき”という、形容詞
をつける事に、個人的には今の所、ためらいが有る。
 以上をまとめると、
”日月惑星の動きに則る”の正しい意味を、暦改良を続けた中国王朝
知識人なら、中国では惑星の精密な位置観測が、継続されたため、
専門家ほどには興味は無くても、正しい意味を知識人なら誰もが知っ
ていた。そのためと、もともと

十二支駒を象棋に入れる習慣というのは、中国王朝内では、誰も考え
もしないために中国では発生しなかった。結局、駒数多数将棋または、
象棋としては、日本でしか、こんな不思議な、動物の将棋の発生その
ものが、なかったのだろう

と、かなりの確度で予想はできるのではないかと、今の所私は、考え
ているというわけである。(2017/12/12)

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