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大理国将棋象の削除。貴金属銀の増加、象成規則の説明煩雑外の理由(長さん)

以前、大理国の王室で指された、8升目32枚制(使用金駒20個)原始
平安小将棋には、もともとは恐らく、カツラ材製の象駒が、計2個存在し、
北宋代中国人交易商人の、周文裔親子によって、立体銀駒に置き換えられ、
更に成り金用の黄金の立体金駒が、20個から22個になって、大宰府
経由で都に運ばれ、後一条天皇が保管する事になったのだろうとの、
本ブログの見解を述べた。その際後に、興福寺で西暦1058年前後に、
不成り酔象となって、正しい大理国将棋を指す目的で、一時期復活したと
みられる不成り象を、前記の交易商人が取り除いた理由として、

①藤原道長からの西暦1014年の”内裏の火災による、金銀装飾品の
消失の補充”要求が、もともと周文裔らが、黄金の将棋駒等を持参する
理由であるから、カツラ製の象を、銀製の立体駒の銀将に変えた方が、
藤原道長には喜ばれるだろうと、彼らは判断した。

②象は、大理国将棋のルールでは、恐らく角行の動きで不成りだったが、
不成りの理由である”後退できる非人間駒には、後退できない非人間駒、
桂馬、香車には適用される、例外的に金将に成るという規則が、象には
適用されない”と表現される、本来の大理国の原始平安小将棋の成りルー
ルを、何も知らない日本人に説明するのが、ごちゃごちゃしていて、
彼らにとっては、至極めんどうだった。

③そもそも、日本人で摂関時代に象を知っているのは、宮廷の上層部
程度であり、大宰府の下級役人や、噂を聞いて物見に集まった、字が書
けるだけが、とりえの”にわか”僧侶や、警護の下級武士に、象とは何か
から説明を始めるのも、同じく彼らにとってはめんどうだった。

の3点を挙げた。その際、私は

角行象を、銀に替えてもゲームは、さほど変化が無いように思える

と、どこかでうっかり述べてしまったと記憶するが、現在

これは間違いだ

と判っている。角行が一つでも入ると、歩兵のうちのかなりのものが、
角行の象に喰われてしまい、と金の数が実際には、かなり減るからである。
 他方、そもそも南詔国や大理国の将棋の馬が、八方桂馬ではなくて、
桂馬の動き、車が飛車ではなくて香車の動きと、宝応将棋から推定され
るのは、南詔~大理の王侯貴族が、

中盤以降、成りを増やして、盤上に立体駒の銀駒ないし金駒を増加させ、
キンキラの盤上の光景を見て、階級的な優越感に浸るのが目的の、四人制
時代の二人制チャトランガからの、古代雲南将棋へのルール変更の、主な
目的の為であった

とここでは独自にみる。しかもその事を、日本にこの将棋をもたらした、
上記の中国交易商人は、人づてに聞くないし、自分達も、試しにこのゲー
ムをやってみる事により、充分に承知していたはずだったと、私は今は見
ているのである。つまり、日本に大理国から、原始平安小将棋をもたらし
た、北宋の交易商人、恐らく周文裔親子には、

④右象をなくし、元々は2つ、その時点で1つ有ったはずの角行象を、全部
銀将にすれぱ、中盤以降の盤上の駒群が、歩兵が消耗しない事により、
より絢爛豪華さが増す事を知っていて、それもあって象を無くした

と、当然考えられると、現在は見ているのである。
 ただし、絢爛豪華な盤面を喜んだのが、実際には、漢詩の書籍を読むと
いう、やや渋い趣味の、大宰府も牛耳る藤原道長ではなくて、

自らが歩兵の役回りで、その中から藤原隆家という、”と金”のモデルが
直ぐ後に、刀伊の入寇の発生という偶然から生まれた、大宰府の国境警備
役の武士達になろうとは、西暦1014年の時点では、周文裔親子にも、
そこまでは予想できなかった

のであろうという事だと、私は現在は考えている。(2018/02/01)

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