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日本の将棋は”漢字圏だから、字書き駒”になったでは無いのでは(長さん)

日本の将棋のもとが中国起源なのか、東南アジア起源なのかに関して、
将棋駒が、漢字で名称を表記しているため、中国寄りだという議論が
されている。しかし、本ブログでは、以下述べる理由で、

日本の将棋駒が立体造形駒になるか、書き駒になるかは、元々微差だ
った

との立場を取る。五角形駒木地に近い木片のある経帙牌は、写経所の
坊主がたまたま役得で、それが入手できたから、将棋駒が誕生したの
だろうと、私は考える。だが実は、さらに発明者は、五角形駒の他に、
小石や木片等、より安定して入手できるものを、立体駒として用い、

将棋駒の完成品として、複数の案を元々持っていたのかもしれない

と私は推定する。小石で立体駒に代用するケースは、
玉用に2個、金将用に22個、銀将用に4個、桂馬と香車用にそれぞ
れ4個づつ、歩兵用に16個、それぞれ形や大きさを変えて、小石を
集め

32個ではなくて、52個で一組の将棋道具にしようとしていた

に違いない。なお、経帙牌を使うケースでも、
裏の成り金だけを書いた駒も、元々は独立して作るつもりであった、
のかもしれない。そしてそのケースは必然的に、52枚経帙牌が、
本来は要るところなのだが、

両面字書き駒を28枚作成し、

32枚で済ましたのは、たまたま、彼の居た写経所には、経帙牌が
52枚もは、無かっただけだった、可能性もあるかもしれないと思う。
 しかし、こうした複数の、将棋ケーム用の駒セットの案が有ったと、
疑われるのだが。実際にはそのうち、駒をひっくり返して成りが、
駒木地の裏に書いてあるケースが、道具として選択された。そしてそ
うしたのは、

発明者の恐らく僧侶ではなくて、実際に最も初期に将棋を指した武家

だったと、私は推定する。なお理由は、

その方がゲームがしやすいという、理由ではないと見られる。

なぜなら、二中歴の将棋の記載に”裸玉ルールが有る”事から、西暦
1015年頃には、取り捨てルールだったろうと、見られるからであ
る。持ち駒ルールがある場合、元駒と成り駒を分けると、成り立体駒
の形を、元駒毎に、元銀将金将、元桂馬金将、元香車金将、と金で、
微妙に形を変えておいてから、相手から成り駒を取った時に、寝かせ
た元駒を、いちいち、探し出して相手に渡さなければならない煩雑さ
がある。しかし、西暦1020年当時は、取り捨てルールだったろう
から、元金、元銀将金将、元桂馬金将、元香車金将、と金は、全部同
じ形でもよいし、使わなくなった、元駒は、復活して使わないはずだ。
 他方、少し前に述べたように、もともと伝来した将棋を、経帙牌の
駒で指した、恐らく大宰府の、国境警護を兼務する警備兵の武家は、

願掛け等、出来の良いゲームを楽しむのとは別の動機で、原始的な
平安小将棋を指した

と見られる。つまりは、
成る前と成った後とで、物体としては同じ物を用いる、経帙牌型の文
字駒の方が、物体としては別々の、52枚セットの立体駒より、仮に

願掛けだとしたら、その目的に合致していた

のである。なぜなら、歩兵駒が、物としてはそのままで、相手陣に突
入して金将に成った時こそ、満願成就を象徴する姿だからである。そ
のとき、元の歩兵小石と、成った後の多少大きめの”と金”小石とを
交換するやり方よりも、同じ歩兵という駒木地のままで、ひっくり返
して名称・肩書きが、金将に変わったとの表現のほうが、

歩兵としての国境警備兵の己の勇士を、ありありと映し出していて、
一種の”お祈りの場”としての、将棋場の雰囲気を、より盛り上げる
ことになる

のであろう。ちなみに、将棋を指す動機である、願掛けの願の具体的
な内容が、”藤原隆家のような「と金」の身分に、自分もなれますよ
うに”であるという証拠としては、時代は下るが、普通唱導集の、
小将棋の第一節の、”歩兵が進むと金に成る、さあ聖目は、もうすぐ
そこだ!!”という威勢の良い唱導文句が、ドンピシャ、その内容で
ある事を、一応挙げる事が出来ると思う。ともあれ以上の事から、
(推定)写経所の坊主が、日本の将棋用の駒の発明として、
第一案:32枚の経帙牌型の文字駒
第二案:52枚の小石から作られた立体駒
の2種類を、仮に実際のゲーマーとしての、大宰府武家に提示すれば、
その結果、経帙牌の費用を、地元の写経をする寺から、請求されたと
しても、当然

武士達は”縁起物には多少の金を出すべき”と考え、第一案を選んだ

のであろう。なお、大宰府の武家が、最初の日本の将棋の棋士である
と仮にすれば、

駒の字の読めない、より位の低い者も、かなり混じっていた

と見られる。しかしながら11世紀の初頭の頃、少なくとも字の読め
ない兵士の、上層部・仕官クラスは、駒の字位、読めたのではなかろ
うか。
 そして、判読しなければならない文字も、6種類の駒字であれば、
字数も限られていたから、字の読めない下っ端兵士は、その字だけ、
彼の上官に教わって結局、皆で将棋が指せたのではないかと、私は推
定する。なお識字問題については、前に同じような事を、故溝口和彦さん
も、彼のブログで書いていたような、記憶がある。彼の言っていた事
に一理が有ると、私も思う。
 以上のような経過で、日本の将棋が字書き駒に決まったとしたら、
それは、たまたま人間型の変身駒が、立体駒の造形では、作れなかっ
たからだという事になるだろう。以上の事から、日本の将棋駒が、字
で駒を区別しているという点で、中国・韓国型である事は、必ずしも、
日本の将棋とシャンチー・チャンギの、部分的な近縁性を、証明して
いるわけではないと、私は考えるのである。
 そして、そう考える事により、シャンチーの成立より幾分早い、
興福寺出土駒の謎も”シャンチー駒を真似て、五角形駒が作られたの
ではない”と考えれば、少なくとも部分的には、解けるのではないか
と、私は考える。(2018/02/10)

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