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プレ後期大将棋から後期大将棋には、なぜ更に進化したのか(長さん)

本ブログの見解によれば、普通唱導集で唄われた、普通唱導集時代の
大将棋が廃れたのは、”角行をタスキ掛けに発進させた上で、飛車を
退ければ、勝負がついてしまう”という、指し方のパターンの単純さ
という事であった。所で、前回述べた15升目124枚制のプレ後期
大将棋が、仮に普通唱導集で唄われた大将棋だとすると、
普通唱導集の編集者である良季等の認識は、間違っており、唄われた、
15升目124枚制のプレ後期大将棋で有る所の”普通唱導集大将棋”
は、終盤も猛豹/銅将の作る堅陣が、攻めきれずに、攻防が結構面白
いはずである。
 つまり、

15升目124枚制大将棋は、廃れたり、更に進化する理由が、その
考えだと、余り無いはずだ

という事になる。にも係わらず、実際には大将棋は、その後、恐らく
小駒(一例として悪狼)と、獅子が加わって、15升目130枚制の、
現在も記録の残る、後期大将棋へ変化した。今回の論題は、15升目
の後期大将棋の、124枚制から130枚制への変化に関して、

ゲームの面白さ以外に、改良の原動力として何があったのか

である。
 そこで、最初に答えを書くと、

①”普通唱導集に記載のように、大将棋を指す”という、序盤の戦術
の単純性が嫌われたため、終盤面白いとしても、124枚制大将棋は、
好まれなかった事
と、
②中将棋の、”特別の規則”が有る状態での生獅子の導入が、一応
ゲームとして優れ物だったため、中将棋のように、獅子を入れ込まな
いと、指す人間が居なくなった事
と、
③中将棋の初期配列で、角行の両側が空の升目になっている形、およ
び、歩兵列で陣の内外が区別される形が、見栄えとして、室町時代の
棋士に好まれたため

だと私は考える。
 特に①は、普通唱導集大将棋から中将棋を作成するときに、中将棋
の現在の形から推定して、

これでもかと、要因を排除し(すぎ)ている点から見ても、この要因
の存在は、明らか

であると、前から私は思っている。
 しかし、それだけでは、現行の後期大将棋に、獅子が元から存在す
る事は説明できない。だから、②の要因も、獅子を入れ込むために、
実質的に陣を、4段配列から5段配列に膨らませる、要因になったと
私は思う。
 また本ブログの推定では、中将棋の進化に関して、

最初期には、角行の袖横の位置には、猛豹が有って空ではなかった

と、推定している。猛豹の位置が、盲虎と並んでおらず、当時の雄雌
の認識にしては、おかしいからである。本ブログでは、すなわち、

中将棋には最初は鉄将が残っており、角筋に当たる堅行を逃がすため、
少しのちに鉄将を取り除いて、猛豹を、猛将と洒落て、一段落として
将列に加えた

とみる。その結果、空き升目に関して、各辺に対し、中将棋では、
1升目から跳びとびの2升目になった。恐らく、この

中将棋の、袖の駒の並びの形が、かっこうが良いと、当時考えられた

のであろう。特に③の要因が、結構大きく、

中将棋が現在の形になってから、後期大将棋に悪狼等が一種類入って
陣が一段、餅のように膨らみ、現在の15×15升目130枚制の
後期大将棋になった

のではないだろうか。むろん、その方が、小将棋、中将棋、大将棋が、
3、4、5段配列であり、升目数、9、12、15のちょうど1/3
になっていて、更に全部、歩兵の列で自陣が始まるため、

書物等で初期配列を書いても、その方が見栄えがしたし、李氏朝鮮の
ゲーマーにも褒められ、外人の煽てもあって、そうした

に違いない。
 以上の事から、ほぼ見栄えと、中将棋に合わせるという観点から、
124枚制の、前に比べれば性能の改善された大将棋は更に変化し、
かつその結果、中将棋に対する差別性が薄れ、結局は室町時代の間に、
ほぼ廃れたのだと、私は考えるのである。(2018/02/13)

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