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興福寺ではなぜ11世紀、40年以上酔象有将棋が公然と指せたのか(長さん)

良く知られているように、現在、興福寺からの11世紀の酔象系出土品
としては、2品知られており、習字木簡が西暦1058年頃、不成り駒
が、西暦1098年頃のものとされる。つまり本ブログの論だと、
興福寺では、象駒が一枚残った、大理国の王室将棋のルールである、
8升目32枚制平安小将棋(原始型・取り捨て型)が、西暦1058年
ころから、西暦1098年までの、40年間以上、指されていたと言う
事になる。なお酔象駒の成りルールは、駒の遺物の方から、不成りと、
本ブログでは一応推定している。動かし方は、この酔象は、7方向歩み
ではなくて、大駒、恐らく角行の動き、すなわち10世紀の、四人制チャ
トランガ”象”類似のルールであろうと、本ブログでは、独自に考えて
いる。
 また一段目の配列が、香、桂、銀、玉、金、酔、桂、香で、酔象が、
右銀の代わりに入る以外、8升目型の、一般に推定されている、32枚
制の原始的な平安小将棋と、初期配列は、いっしょである。つまり、
この頃はまだ、標準的なチャトランガ類と同じく、

酔象は、玉将の前升目ではなくて、象-馬-車、の袖配列の象だった

筈である。ともあれその結果、ゲームは、象が入る事により、8升目の
原始平安小将棋よりは、小駒の消耗が増え、裸玉勝ちが、少し少なくな
り、本来の、正常な玉詰み将棋に、だんだん戻ってゆくような方向の変
化を、多少は、したのだろうと、私は推定している。
 更に本ブログの見解によれば、この西暦1058年から1098年ま
での40年間で、西暦1080年頃に、初期院制派の大江匡房等の進言
により、「酔象は取り除くべき」との、白河天皇の詔等が、発布され
たと見ている。ところが興福寺からは、西暦1098年ころに、酔象駒
が、相変わらず使われたために、実際2番めの証拠の駒が、出土してい
る訳だから、

初期院制派や白河天皇の命令は、結局、興福寺の僧等には無視された

と、当然推定する事が、出来る訳である。では、なぜそのような”大そ
れた事”が、興福寺には平然と出来たのかを、今回は論題とする。
 そこでただちに回答を書くと、その時代既に

興福寺は独立して大きな武装勢力を伴っており、中央の命令は無視して
も怖くはなかった。特にこの時代は、その管理者のトップが、院政派と
争っている、そこの有力檀家等である、摂関派の藤原家の長者であった
ため、当然、初期院政派の、大江匡房等の進言により標準化された、
9×9升目36枚制の標準型平安小将棋(取り捨て)型が、該寺内で
指される訳がなかった

からだと、本ブログでは考える。
 以上の論は実際には、私のつたない、通俗日本史についての知識から
割り出した。が、私は歴史の専門家ではないので、以上の仮説が日本史
の常識に照らして間違っていたら、ただちに論を、取り下げる事にした
い。
 なお、9×9升目36枚制の標準型平安小将棋の特徴は、酔象が無い
以外に、もう一つある。それは玉将を使わず、玉駒は、

彼ら初期院政派が、西暦1080年前後に発明した”王将”である

という事だと、これまた、本ブログで独自に、見ているという点である。
従って将来も、興福寺からは、古代末期の遺物としては、

”王将”と書かれた駒が、一枚も出土しないはずだ

と言うのが、

本ブログに、特徴的な予想

でもある。興福寺から今後、平安時代の将棋駒として、王将が出土して
しまったら、以上の論を直ちに、取り下げる予定である。(2018/02/17)

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