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刀伊の入寇後、大宰府から国内の他の場所に将棋を伝えた者は誰か(長さん)

大阪商業大学アミューズメント産業研究所編の、「解明:将棋伝来の謎」
(2014年)で、松岡信行著が、日本の将棋の京都朝廷内発生説の根拠
として挙げている事実として、出土駒が、九州等、地方に集中していない
事がある。他方、本ブログでは、最初に五角形将棋駒を使う日本の将棋が、
日本で最も盛んに指された地点を、九州福岡県大宰府の、武家の駐屯地と
しているため、松岡氏の批判に、当然答える必要がある。そこで、今回は
この点を論題にする。最初に主な回答を書くと、

唐物の国内交易商人が、初期の情報の京都への伝達、中心点変換の主役

だと私は考える。本ブログの将棋”中国大陸南部伝来元説”の伝来時代は、
ずばり、松岡氏が”一条サロンでの、皇室によって、将棋が生成された”
とする推定年とぴたりと同じ、藤原摂関時代の西暦1015年である。
この唐物嗜好最盛期には、大陸の中国北宋交易商人の伝来物の噂や、伝来
した物品の国内の流通が、特に、荷揚げ地九州の博多等と都京都の間で、
盛んに行われていたと、私は聞いている。
 たとえば、吉川弘文館出版の、野口実著「列島を翔ける平安武士」
(2017年)には、そのような、国内商人の名前として、泰定重という
人物が挙がっている。彼らは、唐物に対する都京都の富裕層の関心が、更
に広がれば、当然ながら、より利益が上がる立場であった。だから、唐物
を取り扱う国内商人は、

今様大宰府・博多の情報を、京都になるべく早く、伝えようとすると見る
のが自然であり、彼らこそが、人口の多い京都に将棋を広げた犯人である

と、私は考えるのである。なお、野口実著「列島を翔ける平安武士」を
読んでみると、最初の将棋指しと、私が個人的に目する、刀伊の入寇で
活躍した大宰府の武士は、長官の藤原定家は別として、その後には概ね、
wikipadiaにもあるように、九州の在地武家の、先祖になった
とされる。すなわち京都へ移住する者は、少なかったようである。ただし
藤原隆家の配下の武官は、少なくとも大宰府では、もともとは京都の高家
を警護していた、貴族武家が下向した経歴の者で占められ、「大宰府の
やんごとなき武者(高貴な武家)」と、言われてはいたとの事である。
つまり、大宰府への将棋棋士となりえる人の流れは、京都から地方が、
確かに卓越していたようだ。
 むろん彼らも、当時はあったと私が聞いている大番役等で、京都警護を
再度する事もあり、将棋の情報も、このとき彼ら自身によって、京都に伝
わった可能性があるとは、充分に考えられると思う。
 よって、西暦1058年時点で、東北・関東では、余り原始平安小将棋
が指されて居無いという事が仮にあったとしても、少なくとも京都と同じ
畿内でかつ、藤原氏関連の、奈良県の

興福寺に、30年経っても将棋伝来の情報が行かないという可能性は無い

のではないかと、私は考える。更にもともと、武芸の一つとして行えば、
武家の出世に寄与するもの、というのが、この将棋を武家等が指す旗印で
あった。であるから、始まりがたとえ西暦1020年頃の、外国の玄関口
である大宰府であったとしても、一旦京都に情報が到達してしまうと、そ
こからは、まさに列島を翔けながら、全国に広がっていったという、平安
武士間の情報伝達作用が、こんどこそは働いた。つまり、大宰府の例で述
べたように、

京都中央から地方への武家の下向の流れは、確実に存在した

からである。これにより、将棋出土駒の分布の平滑化が、実際には急速に、
行なわれたのではないかと私は思う。すなわち外国からの伝来でも、

以上のような、二つの拡散作用による結果

として、どんなに遅く見積もっても、平安時代末期までには、京都を中心
に、出土に、あまりコブが余り出ない程度に、将棋が全国に広がっていた
と仮定して、余り大きな問題は無いのではないかと、私は今の所考えてい
るのである。(2018/04/01)

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