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平安大将棋。配列が歩兵3段から歩兵4段になったのは何故か(長さん)

表題の件について、誰がオリジナルなのか、はっきり私は知らないが、
少なくとも将棋史研究者の故溝口和彦氏が、二中歴の駒の配置の記載
の言い回しの文字の差から、

平安大将棋は、二中歴の記載を読む限り4段配列である

と、生前表明していたと認識している。彼によると、二中歴時代の
大将棋の初期配列は、以下のように、表現されていたと思う。

二中歴の平安大将棋(4段配列型・溝口)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:口口口口飛龍口口口口口口横行口口口口口口飛龍口口口口
二段目:奔車口口口口口口猛虎口口口口口口猛虎口口口口口口奔車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

彼は、二中歴の大将棋の記載で、横行、猛虎、飛龍、奔車の位置説明
で、それぞれ横行は玉将と、猛虎は銀将と、飛龍は桂馬と、奔車は香
車と、どういう位置関係かを表す漢字の、”頂”と”上”の字の違い
等を細かく問題にして、上記配列を、割り出したと、私は理解してい
る。
 結論を最初に書くと、”頂”と”上”の字の違いだけを、単純に
問題にすると、正しくは、次のようになると、本ブログでは考える。

二中歴の平安大将棋の記載(4段配列型・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:口口飛龍口口口口口口口口口口口口口口口口口口飛龍口口
二段目:奔車口口口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口口口奔車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

か、または
二中歴の平安大将棋の記載(3段配列型・本ブログの見解)
四段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:奔車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍奔車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

つまり本ブログでは、単純に、

頂と書かれているときには、直ぐ上、上と書かれているときには、
2段目と3段目の場合が、有り得ると言っていると解釈した

のである。つまり、西暦1200年時点で既に、平安大将棋には、

3段歩兵型と4段歩兵型が並存してあると、これより本ブログは、
主張を変える事にした

という事になる。
 なお、本ブログと溝口説の差は、溝口説では、横行がなぜ3段目
なのかは不明だが、飛龍に関する二中歴の記載の”上”を、桂馬の
行き所と彼が解釈しているのに対し、本ブログでは、単純に直ぐ上
か、その先と

”上”の字は、方向のみを示し、位置をぼかした言い方である

と考えているという違いから来る。
 以上のように、根拠は、実際に
”頂”と書いてある場合は、隣接前升目、”上”と書いてある場合
は、可能な限り、歩兵段の下までの、何れかと考える事にしたとい
うだけの事なので、今回の論題に答えるためには、
それが、正しいと見られる根拠を、示せば良いという事だけである。
 そこで、正しいと見られる根拠を次に述べる。
これも、答えから先に述べる。

飛龍が角行の動きで間違いないのなら、互いに相当たりしないよう
にして、局面をより早く、激しいものにするための配置換え

であるというのに、間違いないと私は考える。
 つまり、これが今回の表題の答え、配列が歩兵3段から歩兵4段
になった理由でもある、という事である。

飛龍は、溝口説のように、相変わらず相当たりのままにはせず、単
純に前に一升目上げ、筋を変えて、わざと初期配列では浮いている、
猛虎の頭の歩兵に、互いに狙いが付くようにした

のである。理由は、猛虎を斜め袖上に進めるように、陣を組みなお
さなければならないようにして、局面に変化を起こすためである。
猛虎を袖斜め上に上げれば、飛龍に睨まれた歩兵には紐が付くので、
受かるのである。そしてこうすると、更に銀や横行を繰り出して、
相手飛龍で当てられた、銀前の歩兵を守りながら、今度は、猛虎を
自身の飛龍先に出して、”斜め棒猛虎戦法”のような、戦い方を、
自然にするように、棋士に仕向けさせるのが狙いと見て間違いない
のだろう。つまり、ゲームが互いにエキサイトするように、にらみ
合いだけの3段目歩兵配列から、

銀先の歩兵が不安定な、4段目歩兵配列に変えたというのが私の説

である。
 つまり、四段目になったのは、第二日本標準将棋の記憶が薄れて、
9升目型の標準平安小将棋の日本歩兵3段目配列に、こだわらなく
なった、発生数十年後の、

西暦1170年頃に、ゲームとしての純粋な性能の改善作業が、
大将棋に関しては、行われ始めていたという事、

なのではないかと、いう事である。
 ただし、元々平安大将棋は、第二標準日本将棋として、西暦11
10頃発明されたものであり、西暦1200年時点でも、その記憶
が残っていたものとみられる。そのため、

飛龍の位置のルールを桂馬”上”と、頂をも包含するように、二中
歴の大将棋の記載では、工夫して、ぼかしているのではないか、

と私は思う。なお、以上の説が正しいとすると、前に本ブログで述
べた、次の時代、すなわち川西大将棋とも言いえる、西暦1230
年時点での大将棋の配列に、変更が必要となる。すなわち、以前
西暦1230年時点で、大将棋は、次のような初期配列だったろう
と、本ブログでは以前に表明している。

川西遺跡大将棋の配列(西暦1230年頃・本ブログの見解・以前)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車口口口口口口口口口口奔横口口口口口口口口口口飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

なお、奔車は、奔横や奔王の加入により、何れ反車になると見られ
るが、それが正確にいつかは、今の所良く判らない。
 これが、飛龍の所一箇所だけ変わって、次が正しいと、見られる
と言う事になる。

川西遺跡大将棋の配列(西暦1230年頃・本ブログの見解・新)
五段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車飛龍口口口口口口口口奔横口口口口口口口口飛龍飛車
二段目:反車口口口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口口口反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

ただし、西暦1260年頃、モンゴル帝国が強くなり、社会不安
から横行位置に酔象が入り、横行が、飛龍の位置に追われると、
今度は飛龍が横行に追われて、飛龍は、後退せざるを得ないため、

本ブログの西暦1260年時点での、大将棋には、配列変更は、
たぶん必要ないだろう

とみる。つまり、飛龍が前進したのは、鎌倉時代前期の一時期だけ
だったと、今の所は、考えると言う事である。すなわち、西暦
1260年頃の、大将棋の初期配列に関する、本ブログの見解は、
以下のように、一応元のままである。

酔象復活期の大将棋の配列(西暦1260年頃・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍口口口口猛虎口口酔象口口猛虎口口口口飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

なお、注人から仲人への変化は、恐らく角行の導入時だと思うが、
正確には今の所、いつからかは良く判らない。
 なお書き忘れたが、二中歴では、大将棋の飛龍のルールは、
全部書くと、次のようになっている。(加賀・金沢藩、前田家本に
よる。)

飛龍立桂馬之上。行四隅、超越。

以前紹介のとき、行が抜けていた。この”行四隅、超越。”部分は、
木村義徳氏の「持駒将棋の謎」の読み下し等によると、動詞が2つ
ある複文である。前回の本ブログの、SV文との解釈は舌足らずで、
正しくはSVO、SVの複合文(飛龍が2つ省略)と、見るべきだっ
たようである。

「飛龍は桂馬の前方に置く。そして動きのルールは、
四隅それぞれへ行き、かつ軽やかに制限なく疾走する」と意訳できる

と、私は考えるのである。
 なお後に、後期大将棋で、飛龍が初期配列で、再度前の方の4段目
に躍り出たのも、以上の記憶が、永らく残っていたからに違いない。
 何れにしても、二中歴の時代には、平安大将棋が発生してから
90年位経っており、その進化が始まっている分の、表現の工夫が、
二中歴作者には必要だったという事が、充分に有り得るのではないか
と、私には推定される。(2018/04/17)

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