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南北朝時代遺跡からは、全部”裏草書体金”駒が出土しているのか(長さん)

以前述べたように、本ブログで、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡から、
西暦2007年に出土した”裏一文字金角行駒”を、

南北朝時代作と見ない根拠は、金の書体が草書ではないから

という点だけである。それは、少し前に述べた、麒麟抄の将棋駒の書き方
を根拠としている。しかしながら、”将棋駒の裏が草書書きであるべき”
と主張されているのが、平安時代院政期に書かれた大鏡の、藤原行成に関
する、天皇への扇子献上物語に、ちなんだ物に過ぎないのなら、

南北朝時代の駒師は、ニセ藤原行成の指導には、必ずしも従わなかった

疑いも有ると、考えられる。つまり、これでは、小山駒が後代の作である
証拠には、なっていないのではないかと、言う事である。そこで、今回は、
少なくとも成書”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”で、

小山市から出土した駒はのぞいて、他の実際に南北朝時代頃に出土した、
将棋駒の裏の字を調べて見た

ので、結果を報告する。
 まず、結論を述べると、歩兵駒が”今”の草書体である、”と金”に、
南北朝時代にはなったとまでは確実に言える。しかし、小山駒は角行であ
るから、既に持ち駒ルールも有るとすると、歩兵ほど、字体は崩さないと
考えられるから、これでは証拠にならない。

実は出土駒としては、南北時代は歩兵駒以外には、例が少なく、上記の問
題は確定できない

事が判った。
 では、以下経過を述べる。歩兵駒で良いのなら、鎌倉時代から南北朝時
代の遺跡出土駒としては、鶴岡八幡宮出土駒、鳥羽離宮出土駒、新安沖
出土駒(2枚)があり、何れも”と”である。つまり、鎌倉時代に入り、
鳥羽離宮出土駒の時代になると、少なくとも歩兵の裏に”金”とか”金将”
とかを書く習慣が、余りなくなった事は確かである。
 所が、他の種類の駒については、そうではない。
 南北朝時代ではなくて、鎌倉時代の駒で、字を崩して書くのは、

京都鳥羽離宮遺跡の銀将と、前に素性を論じた事のある、
安芸平賀氏関連の、秋田県の手取清水遺跡の桂馬の計2枚だけである。

他に、鎌倉時代の遺物としては、神奈川県鎌倉市雪下の若大路遺跡の桂馬、
兵庫県玉津田中遺跡の桂馬が知られ、この二枚は、”金”になっている。
つまり、歩兵以外のその他の駒は、

鎌倉時代頃には、五分五分であって崩さなくても、良かった

疑いが強いという事ではある。だから”麒麟抄に駒師は従った”と論のは、
多少は怪しいのである。
 しかし次が大切な事だが、歩兵以外の南北朝時代に近い出土駒としては、
今の所、鎌倉時代最末期とみられている、

新安沖沈没船出土駒しか、はっきりと時代が判るものがない

ようなのである。そして、新安沖沈没船からは歩兵以外の出土駒で、裏面
があるものが2枚出土しており、二枚とも桂馬で、2枚の桂馬の裏は”と”
になっているとされている。

つまり、麒麟抄を判定する、歩兵以外の出土駒は、どうやら2枚しかない
が、この2枚については、麒麟抄の内容の通りになっている

ようであるという事である。この事から、

”栃木県小山市神鳥谷曲輪の角行は、裏が『金』なので、麒麟抄が正しい
とすれば、南北朝時代のものでは無い”という推論は、例が少なすぎて、
出土駒の事実からは、たしかに怪しいものの、絶対に間違いだとまでは、
まだ言えない

という事になる。つまり、小山の角行駒には厳しく、他方麒麟抄の中身は
好意的に見ると一応、麒麟抄の成りの文字の書き方が、南北朝時代の駒
師の、標準になっていたのかもしれないので、小山の角行駒は今の所、疑
うべきだと、いう事になる訳である。(2018/04/20)

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