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一文字”歩”駒。どうして興福寺からしか、出土しないのか(長さん)

現代では、一文字で”歩”と表現された、歩兵駒は、どこかで販売さ
れていると思う。が、史料としての出土駒には、余り例が無い。”歩兵”
が普通である。ところが、西暦1058年と1098年のものとみら
れる、興福寺の出土駒の中に、前者は2枚、後者は1枚一文字”歩”
が入っている。なお、興福寺の歩兵駒は、1058年が5枚、1098
年が7枚と聞く。特に、1098年の一文字”歩”は、鮮明であって、
”兵”が書いてある可能性は、全く無い。
 ところで、天童市資料館2003年発行の”天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒”の約500枚の、将棋駒のカタログには、略”歩”駒は、
興福寺の例しか載って居無い。他は一文字でも”兵”か、または2文字
目が消えて”歩”に見えていると、みられるものばかりである。
 今回の論題は、最後に蛇足で、玉、金、銀が興福寺駒では目立つよう
に描いて有る事には一部触れるが、この

興福寺から、良く出土する一文字”歩”の理由

である。回答をいつものようにまず書くと、実は、前にも少し触れたこ
とがあるのだが、

当時の興福寺で将棋を指す棋士のマナーが、特に悪かった

からだと、私は考える。一手で、歩兵を2升目動かして、反則の成り金
を作る事が、しばしば有ったので、それを防止するためだと、いう事だ
と思う。つまり、

”歩兵は、前に1歩づつ”というのが、伝来した世紀の末までは、充分
には徹底されていなかった

という事なのではないかと思う。これは、平安小将棋では、と金の数の
差が、死活問題になる事から、来ると見られる。それに、本ブログの
見解では、

当時の平安小将棋の升目が8升目

で、1歩歩兵が上がってから、成るまでにあと2歩であり、次の歩兵の
前進で、2歩上げの反則手が、出やすかったのも、あったのだろうと、
考えている。今のように、歩兵が4歩前進で、初めて成れるルールの場
合には、歩兵を、ひたすら前進させる手を指す確率が、当時よりも少な
く、反則の頻度が、やや低くなるとみられるのである。なお、持駒ルー
ルがあるので、初期位置からの、と金作りは、日本将棋では、いっそう
確率が減る。
 ところで、興福寺の出土駒で、特に1058年タイプの方には、冒頭
で少し書いたように、

玉の字を縦詰めに書かない。金と銀の字を、将より広く書く

という、傾向がある。将も書いてあるのだが、玉、金、銀の文字が、
いわば”太文字”あるいは、強調文字になっているような、傾向がある
という事である。
 これは、玉将、金将、銀将という駒が、それぞれ独立に、駒の動かし
方ルールが有ると認識して、玉、金、銀と、駒名を略称する日本将棋を
指す、現代人の”感覚”が、11世紀には、まだ無かった事を、示して
いるように、私には思われる。

将の中の玉将、将の中の金将、将の中の銀将と認識しているから、この
ような表現を、11世紀の駒師はする

のではないか。つまり、はっきり言えば、

玉(ネフライト)でできた将駒や、金でできた将駒、銀でできた将駒が
形が同じで、材質により色が違って見えた将棋道具が、少し前に有った
という記憶が、西暦1058年には、まだ有った

と、私に言わせると疑われると、いう事だと考えるのである。当然だが、
歩兵が歩なのよりも、”将でも玉将、金将、銀将と思っている”という
11世紀の日本人の意識の情報の方が、はるかに重要だ。(2018/05/16)

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