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西暦1910年~30年。中将棋が”支那将棋”と言うのは定説か(長さん)

私も前に、どこかで聞いたような気がするし、岡野伸氏も”中国の諸
象棋”にも書いているのであるが、表題のように、明治時代の後期か
ら昭和時代の初期にかけて、日本の中将棋が”支那(中国の)将棊”
と言われていた時代があるとされている。上記の、岡野伸書、「中国
の象棋 改訂版」(2018)には、出典まで書いてあるので、あり
がたい。西暦1909年出版の「将棊定跡講義」と、西暦1931年
版の関根金次郎「将棋上達法」(誠文堂)が、その例だと言う事であ
る。特に後者によると「中将棋は、西暦1131年程度に、最初に
中国から伝来した将棋である」との旨が、書かれているとの事である。
 当然だが、象棋六種図式を含めて、江戸時代の、駒数多数将棋を紹
介した書籍の発行よりは、上記の2つの書籍の発行は、はるかに下る
ものである。よって、

大将棋、中将棋、小将棋と存在するうちで、中国で発明され、初めに
伝来したものが中将棋であるというのは、そもそも奇怪な説

である。なぜなら

この中では、3番目に出来たものである事が、ゲームの名前のつけか
たからして、ほぼ確実

だからだ。
 そこで、今回は、遊戯史研究者の内部で、上記の説は、約20年間
本当に定説と見られたのかどうかを、論題としてみた。
 先に回答を書くと、

日本将棋の棋士の団体内では、提唱者が日本将棋の権威等なため、
上記説も、いわば虎の威を借りるで強かった可能性もあるが、研究者、
特に明治時代に華族と言われた、諸芸の研究をしていた知識人には、
ほぼ無視されたとみられる説だった

のではないかと、私は推定している。理由は、説の出る少し前の
西暦1908年8月25日に、古事類苑の第30分冊「遊戯部」、
細川潤次郎他著が、神宮司廰から出版されているためである。この
著書を読めば、

日本将棋が小将棋の類である事と、中将棋のほかに大将棋が存在する
事。二中歴の将棋と大将棋が記載されているため、小将棋と大将棋し
か、西暦1200年頃には無い事が、ただちに判ってしまう

という訳である。なお、古事類苑の第30分冊「遊戯部」の二中歴の
記載は、小将棋と大将棋で、バラバラだったかもしれないが、二中歴
全体が、次のより古い成書では、まるまる載っている。西暦1903
年2月13日発行。近藤活版印刷・発行、著者:近藤瓶城、「改定
史籍集覧」。
 では何故、「将棊定跡講義」と「将棋上達法」の著者が、古事類苑
等を無視したのかと言えば、

無視したのではなくて、「将棊定跡講義」の著者が、古事類苑の遊戯
部を調べなかった

のだろうと、私は推定する。恐らく、増川宏一著書の将棋Ⅰの、文献
リストから察するに、寺島良安の「和(倭)漢三才図解」復刻版西暦
1902年発行だけを見て、

将棋には日本将棋と中将棋だけがあり、どちらも結局中国からの伝来物
だが、成立としては、中将棋の成立の方が早い

という情報だけから”中国で発明され、初めに伝来したものが中将棋
である”という説に、短絡してしてしまったのではないかと、私は推
定する。
 なお、「将棊定跡講義」の著者について、私の調査では、誰だか、
まだ判って居無い。宮崎県の都城市と、関連する人物だとすれば、
嘉永(かえい)6年(1853年)という、幕末に近い年に、島津藩の
島津斉彬(なりあきら)が、都城の自藩領地を巡見する際に、シャン
チーの駒が、出土した事で知られる、唐人町を見た記念に、鳳凰と、
麒麟の屏風を、島津城で作成している。これがもとで”中国将棋には、
元々は鳳凰駒と麒麟駒がある”という”ニセ情報”が、明治時代に、
どこかで生じていたのかもしれないとも、疑われる。そもそも、鳳凰
が、シャンチーの日本の江戸時代名である金鵬と似ている点も、この
屏風作りと、関連するのかもしれない。ただし鳳凰駒と麒麟駒が有る
のは、中将棋に限らず、実際には後期大将棋、摩訶大大将棋、普通唱
導集大将棋にも含まれるのだが。
 ともあれ何れにしても、古事類苑の第30分冊「遊戯部」は、西暦

1908年8月25日には発行されている

ので、諸芸に興味の有った、明治時代から大正時代にかけての華族は、
関根金次郎の将棋上達法の、将棋史部分を読んでも、中将棋は支那
(中国の)将棋だとは、思わなかったのではないかと思う。ただし、
華族の中から、将棋の名人は出なかったので、反論の書籍等も、殆ど、
1910年から1930年の間には、出版されなかったのだろう。
 従って、1910年から1930年までの20年間、日本人が、

中将棋を中国の将棋だと思っていたと言う事は、実質的に、一部を
除いてほぼ無かった

と、推定して良いように、私には結論された。むろん、関西を中心
に中将棋を指していた、当の中将棋の棋士は、将棋史に興味を持つ者
が、ほとんどだっただろうから、彼らの間には、

古事類苑第30分冊「遊戯部」将棋記載の系統的情報は、じきに
知れわたっていた

事だろう。
日本将棋の戦法の記載に注力して、普通に日本将棋本を書いていた
関根金次郎氏は、うっかりチェックを怠ったので、「将棋上達法」に
「将棊定跡講義」の内容を、

ほぼ丸写しにしてしまい、結果として失敗しただけだったと見るべき

だと私は考える。よって最初に述べた通り、
西暦1909年出版の「将棊定跡講義」と、ほぼ同じ頃出版された、
西暦1908年8月25日出版の、江戸時代以前の将棋歴史本を集
めて、編集された古事類苑の第30分冊「遊戯部」の存在のために、

初めに伝来した将棋が中将棋であるという奇怪な説は、日本将棋の
棋士の団体内では、提唱者が日本将棋の権威等なため、上記説も、
いわば虎の威を借りるで強かった可能性もあるが、研究者、特に
明治時代に華族と言われた、諸芸の研究をしていた知識人には、
ほぼ無視されたとみられる説だった

のではないかと、私は推定しているという事になる。(2018/06/07)

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df233285

「和(倭)漢三才図解」についての補足(長さん)
上の本文では、書かなかったが。
寺島良安の「和(倭)漢三才図解」には、”小象戯”という熟語が、
実際には、”未定義”で書いてある。場所は、「中将棋で、駒の動かし方
のルール関連を省略した時には、”小象戯”に準じる」と、中将棋の
ルール説明で、している箇所である。なお、日本将棋は”将基”と
紹介され、シャンチーが”象戯”になっている。つまり、駒の動かし
方ルールで、ヌケを具体的にチェックしないと、中国シャンチー
から、中将棋が作られたようにも見える、妙な混乱が有るのである。
by df233285 (2018-06-11 08:00) 

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