SSブログ

アルマゲストから惑星動きのイスラムシャトランジ駒ができた事情(長さん)

何回か前だが、イスラムシャトランジが成立する前の、西暦770年~
800年の頃に、アレキサンドリアのプトレマイオス著書のアルマゲスト
が、アッパース朝の王(カリフ)によって、ギリシャ語等からアラビア語
に翻訳され、その影響で、イスラムシャトランジの馬駒が、八方桂馬動き
になる等、惑星の動きを象ったシャトランジが、完成したのではないかと
の旨を、本ブログで述べた。上記の年代は当時、webの情報を参照し
たものであった。その後、イスラム圏の歴史書等を当たったところ、
プトレマイオスのアルマゲストのアラビヤ語への翻訳は、西暦830年
前後と、ややズレている事が判ってきた。そこで、専門成書やwebの
情報を再度調査し、この点に関し、今回正確に調べて見る事にした。
 結論の要旨をまず書くと、次のようになった。

アルマゲストは6世紀には、アラブ社会では、その土地の言語へ訳されて
いた。だから、イスラム社会でアルマゲストが普及したのは、アラビア語
訳が出来たからではなくて、西暦770年~800年の頃のイスラム帝国
アッパース朝のカリフ、3名程度に、何れも重大視されていたからである。

 では、以下に上記の解説を少しする。
 そもそも、本ブログで、イスラムシャトランジを象棋と分類する根拠に
なっている事柄のため、アルマゲストの、イスラム社会への普及が先か、
イスラムシャトランジの成立普及が先かという問題は、大いに重要である。
従って、イスラムシャトランジに、名人が生まれたかなり後で、プトレマ
イオスのアルマゲストが普及して、天文学と象棋が関連付けられるように
なったでは、済まされない。従ってこの点は、正確に確認する必要がある
事項である事は、明らかだった。そこで、以下の成書に当たり、アルマゲ
ストがアラビア語訳された事情について、再度当たってみた。

恒星社発行「アルマゲスト」(プトレマイオス著)薮内清訳。新装版発行
西暦1982年(元々の発行年:1958年)

 この著書の、日本語訳者の薮内氏の解説によると、
アルマゲストは、元々古典シリア語へギリシャ語等、元言語から6世紀に
は早くも翻訳され、

西暦830年頃に、口語でイスラム圏では話されなくなった、
古典シリア語からアラビア語へ再翻訳された

となっていた。つまり、イスラム教が普及した頃、言語がイスラム帝国で
は、キリスト教の祭礼にしか、以後使われなくなった古典シリア語から、
アラビア語に変わったので、

アルマゲストの重大性を知っていたカリフにより、古典シリア語から
普及のために、イスラム社会の標準言語であるアラビア語に、西暦830
年頃に再翻訳された

と事情のようであった。つまり、

言語に詳しいアラブの専門家なら、西暦770年時点でも、アルマゲスト
は、読んで理解できたという事

である。
 そもそも、プトレマイオスのアルマゲストは、2世紀に現エジプトの
アレキサンドリア付近で著作されたものなので、

インドのマウリアのカナウジで、西暦650年頃、二人制チャトランガが
発生したのよりも、ずっと古い

のである。しかし、当時はギリシャ・ローマ世界でしか、アルマゲストの
惑星運動理論等は普及していなかった。西暦550年頃に、やっとアラブ
世界に達したが、

そこで普及したのは、更に、それよりだいぶん後のイスラムアッパース朝
の西暦770~800年頃の王(カリフ)の努力のおかげだった

という事のようであった。つまり、翻訳の時点を、アルマゲストの普及と
見るのではなく、

2世紀に成立したアルマゲストの内容は、8世紀の終わりごろに、イスラ
ム社会に、アッパース朝の王(カリフ)達の掛け声で広がった

と、表現するのが正しそうだ。
 なお一旦、アルマゲストが西暦770年頃に、アラブ社会で注目され出
すと、これと、イスラムシャトランジの駒との関連については、ここから
シルクロードを通って、中国・唐王朝後期には、イスラムシャトランジの
ルールを記載した、”象経の類”として、西暦840年頃までには知られ
るようになったとみられる。つまり、それまでのアルマゲストの普及の
停滞に比べると、その優秀性に関する認識のグローバル化は、いったん始
まると、かなり早かったのだろう。
 一方中国では、西暦570前後に独立に、中国の南北朝時代の北周の
武帝が、”象経”を著作したとされる。日本の東洋学者で元北海道大学大
学の伊東倫厚氏が、その書を賞賛した内容や賦等を精査し、南北朝時代の
北周の武帝が作り出したゲームは、中国シャンチー等では無いと、結論し
ているらしい。
 前に高見友幸氏の摩訶大将棋のブログでも、「象経」(一巻・周武帝撰)
の内容の議論に、私も加わった事があった。イントロ部分しか、記録が残っ
ておらず、二中歴の記載をイメージすると、ゲーム本とは、凡そ似て居無
いものだったと記憶する。
 強いて言うなら、新猿楽記のような、書きっぷりであるようにも見え、

ゲーム本に入れるとすれば、強い棋士やゲーマーを紹介した内容が、本編

のようにも、私には思えた。なお、増川宏一氏はこれを天文書、幸田露伴
は、シャンチー以外のゲーム本と見ているという紹介内容が、伊東倫厚氏
の研究も合わせて、木村義徳氏の、「持駒使用の謎」には出ている。
 何れにしても、北周武帝の”象経”は、少なくとも私には内容不明だが。
象棋だか天文学だか良くわからない史料として、”チェスの歴史”の著者
のマレーの時代から、問題になっている類の中国の唐代等の文献は、少な
くとも、宝応将棋時代の晩唐期の物については、イスラムシャトランジ等
の、象棋・将棋類を牛僧儒等に見習って着目し、惑星の動きと、象棋ゲー
ム類(主にイスラムシャトランジ)の駒の動きを、唐国内に居たイスラム
大食人旅行者等のように、中国人が関連付けたという、カテゴリーのもの
なのだろうと、本ブログでは考えているという事になる。(2018/07/17)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。