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埼玉県さいたま市の岩槻城から、将棋駒の出土は期待できない理由(長さん)

本ブログで過去何回か、栃木県小山市小山城関連の、小山市神鳥谷曲輪
遺跡の将棋駒を取り上げてきた。小山城周辺には、栃木県宇都宮市の
宇都宮城跡とか、今回取り上げる、埼玉県さいたま市岩槻区(いわつき
く)の岩槻城とか、小山城とほぼ、同じくらいの規模の中世から戦国時
代にかけての城跡が存在する。特に岩槻城については、南北朝時代には、
太田荘自体に、小山氏の支配が及んでいたので、小山城の地域との
関連がやや深い。そこで、今回文献で、戦国時代ではあるが、太田道灌
が築城したと伝えられている、岩槻城について、たとえば戦国時代の、
将棋駒の出土が、期待できるのかどうか、ざっとだが調査してみた。
結果を先に書く。

井戸跡の水分含有が、思川沿いの小山城に比べて、少なくとも現在は、
元荒川沿いの岩槻城の方が、低いのであろうか。木製品が井戸跡から
出土する事があまり無く、将棋駒の出土は、そのために過去例がない

ようであった。以上について、以下少し補足する。
 今回調べた、埼玉県さいたま市岩槻区の岩槻城遺跡の発掘調査報告書
は、以下の通りである。

埼玉県(旧)岩槻市教育委員会(遺跡調査会)、2003年発行。
岩槻城二の丸跡第4地点発掘調査報告書

 上記の遺跡発掘調査によれば、調査地点に井戸跡が6つあり、小山城
関連の、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡同様、井戸跡からカワラケが、
多数出土している。ところが、

炭化した米の塊程度の有機物は出土しているのだが、曲げ物用の板切れ
とか、箸とか、木製の遺物が、6箇所の井戸共に、全く出て居無い

との事であった。木製遺物は、遺物の埋設された場所の水分が、空気を
完全に長期に亘って遮断する程度に無いと、言うまでも無く、その木製
品の遺物は、腐って消失してしまう。残念ながら、

岩槻城の井戸跡は、小山城付近の、地下に思川の水脈が流れている、
神鳥谷曲輪の井戸と異なり、元荒川の護岸工事が、近代にはしっかりと
しているためか、枯れて、木製品が腐ってなくなってしまう環境

にあるようだ。その証拠に、腐らない瀬戸や陶器製の遺物は、小山の
遺跡と、岩槻城の遺跡とで、さぼどの差が無いようである。なお、岩槻
城の年代の方が、小山城よりは下るので、金属製の破片の遺物が、岩槻
城でのみ、出土している。
 ちなみに岩槻城遺跡の発掘は、大規模なものが、2003年までに、
数回行われているとも、上記報告書には書かれている。しかし、将棋駒
の遺物が、一見出そうな岩槻城から、出土したという話は無い。むろん、
地元の特産の、木製品の雛人形の遺物が、城跡から出土するというのは、
論外のようである。ようするに、

木製品は出土しない、遺跡の自然環境

なのであろう。ただし普段は、井戸は2~3mも掘ると、水が出てくる
環境だとも書いてあった。
 何れにしても、東京に向かうにつれて、雨が降っても水が出ないよう
にしてあるだろう。そのため東京都心に近い、有力な城跡である、岩槻
城や河越城等からは、近代には比較的、

将棋駒が出にくい遺跡環境

なのではなかろうかと、調べてみて私は感じ始めたた次第である。
(2018/07/18)

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