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後期大将棋(各々65枚大将棋)は二中歴成立の時代には作れない(長さん)

本ブログでは後期大将棋は、室町時代前期頃に成立したと考えている。
しかるに最近、大阪電気通信大学の高見研究室のブログで、後期大将棋
が、平安大将棋よりも早くに成立したとの旨の、主張が始まった。言う
までもなく、どう遅くても西暦1220年以前には、成立していたとみ
られる二中歴に、高見研究室と同じ認識の”片方34枚制の平安大将棋”
のルールが詳しく記載されている訳であるから、もし、高見研究室の意
見が正しいとすると、片側65枚制の後期大将棋は、平安時代末には、
成立してしまう事になる。前に、同様の議論を、木村義徳氏著の”持駒
使用の謎”に関連してした事があり、二中歴の時代には、大将棋は平安
大将棋を骨格としたものだったので、”廃れた平安大将棋”をわざわざ
書く”学術界の強化のための道義的責任”等が無い事を根拠にした。
しかし、そのときに65枚制後期大将棋の成立年代の室町前期説を、
ここでは強調はしなかった。実は本ブログではバラバラに、後期大将棋
は室町時代前期成立説との見解を述べているのだが、

後期大将棋自体が、南北朝時代まで無い根拠を、1ページにまとめた事
が無かった

ように記憶する。そこで、今回は、後期大将棋が室町時代前期作と鑑定
される根拠を、直接的に論題とする。
 最初に要旨からずばり述べる。

猫叉、悪狼、猛豹の3駒が、室町時代の成立と、本ブログでは推定する

からである。
 そこで以下に、以上の観点に関して、解説を加える。
 その将棋の成立年代を推定する上で、

構成される駒種の名称が、何時の時代から存在する物品・概念等なのか
は、大いに参考になる事柄

だと、本ブログでは考える。
その時代に存在しない名称の駒種があれば、その将棋種は、それより後
の成立だと推定できるだろうと、ここでは考えていると言う事である。
 本ブログではずばり、

後期大将棋の成立時にに初めて加わった、その時代最先端の駒名は、
猫叉、悪狼、猛豹の、実質的に3種類と断定

している。このうち、文献が揃っていて、二中歴の成立よりも、
後期大将棋の方が遅いと明らかに推定できる、根拠が最も明確な駒は、

猫叉

である。猫叉は”猫亦”として、

藤原定家の明月記が初出

だからである。藤原定家は、ほぼ二中歴の時代の貴族である。この頃
やっと現われる猫叉が、平安大将棋よりも早いはずの後期大将棋に、
もしそうだとすれば、有るはずが無い、つまりもし、最近書かれた
高見研究室の、日本の将棋に関する進化フロー図の通りだとすれば、

後期大将棋に猫叉駒が有るはずは無い

と、本ブログは考える。猫叉がよりはっきりと現われる次の文献は、
鎌倉時代末の徒然草であり、それ以降に、後期大将棋は成立したと考
えるのが、本ブログの、従来からの見解である。
 更に本ブログでは、悪狼は猫叉と同系統の妖怪であり、

悪狼は鎌倉時代末の悪党の洒落

だとみている。だから、この駒も、二中歴の成立である鎌倉時代早期
よりも、ずっと後に出来たの駒であると見る。また、

猛豹は室町時代の辞書で現われる、猛将の洒落

と、本ブログではみる。猛将を猛豹にしたのは、次のような経過とみ
る。もともと中将棋で存在する盲虎に加えて、そのメスとして、猛豹
を鉄将の前に置いた。だが、中将棋では角先が堅行に当たっていて、
それから堅行が、逃げられるようにするために、鉄将自体を除き、
猛豹を引く配列結果となった。そしてそのときに”獣駒が将駒と並ぶ
のが不自然だ”と棋士からデザイナーは非難されたが、豹を将の音に
類似と洒落て、デザイナーがお茶を濁したのが通ってしまったという
のが、本ブログの、猛豹の正体に関する推定である。だから猛豹は、
南北朝時代に発生したと、ここでは中将棋の成立年代の定説通りにみる。
つまり65枚制の後期大将棋は、その猛豹を後で取り込んだものなの
で、92枚化した中将棋より発生が後と、考えるのである。よって以上
の事から、後期大将棋は、南北朝時代に成立した初期中将棋の後の、
恐らく室町時代前期頃発生と、本ブログではみなしているという結果
になるという訳である。
 以上のように、

後期大将棋に、鎌倉時代末期から室町時代前期にかけての猫叉、悪狼、
猛豹、以上の3種駒があるというのが、平安時代末期には後期大将棋
はまだ無いと考える、最大かつ最も判りやすい根拠

だと、ここでは考える。
 なお以上の鑑定結果は、本ブログの私的なものである。他の鑑定
行為を拘束する意図が無い事を、テレビ番組の”開運何でも鑑定団”
のテロップと同じパターンで、予め表明しておきたい。
 最後に蛇足だが。ここで使っている”後期大将棋”という名称は、
近代になって、二中歴の大将棋と区別するために、付けられた名称で
ある。古文書では、二中歴の大将棋も、片側棋士65枚制の後期大将
棋も、単に”大将棋”と称され、

これらの2種類の大将棋は、同時には一文書に現われないという特徴

がある。
つまりこの点で、上で取り上げた2種類の大将棋は、平安小将棋と
日本将棋との関係に類似で、適当な日本の将棋種2種類間の関係とは
違っている。このため単純な見方をすると、高見研究室の論で行くと、

片側65枚制大将棋(=後期大将棋)は、西暦1200年前後に一旦
片側34枚制平安大将棋に置き換わった後、将棋纂図部類抄の安土桃
山時代までには、また復活した

ことになる。摩訶大大将棋のブログには、上記の事情の説明が、まだ
表明されて居無い点が、気になるところだ。よって高見研究室の、日
本の将棋の変化に関する御研究の更なる継続と発展を、本ブログでも、
大いに期待する所である。(2018/07/30)

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