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水無瀬兼成将棋纂図部類抄行然借部。摩訶大大将棋口伝と逆順の訳(長さん)

以前何回か述べたが、水無瀬兼成の安土桃山時代の将棋図である
将棋纂図部類抄には、六将棋の初期配列図と成り図の他に、摩訶
大大将棋に関して、水無瀬が曼殊院の僧から聞き取ったとみられる
”摩訶大大将棋口伝”と称する、摩訶大大将棋のルールに関する
注釈と、”行然和尚から借りて写した”と水無瀬が、将棋纂図部類
抄の中で表明して載せている、摩訶大大将棋の特殊駒のルール等を、
罫線付きの、コラム書き形式で、まとめた表が存在する。ここでは
以下、前者を”摩訶大大将棋口伝部”後者を、”行然和尚まとめ部”
と、仮に表する事にする。そして、本ブログで既に何回か指摘して
いるが、

”摩訶大大将棋口伝部”と”行然和尚まとめ部”とは情報内容が
実質一緒

である。つまり、水無瀬兼成が口頭で聞いて写した話を、”文書で
報告しないのは、豊臣秀次等に対して失礼”と見た曼殊院が、文書
で自分達で同一内容を書きなおして、水無瀬に渡したという経緯と
みられる。

水無瀬兼成は、同じ内容なのだが、将棋纂図部類抄には、どちらも
載せている

という事だと、本ブログでは見る。
 ところで、情報量は”摩訶大大将棋口伝部”と”行然和尚まとめ
部”とは、いっしょなのだが、表題に書いたとおり、

項目の書き順が、完全に間逆

なのである。つまり、”摩訶大大将棋口伝部”には、
玉将の説明、酔象の説明、無明の説明、提婆の説明、狛犬の説明、
驢馬の説明、金剛・力士の説明、鉤行の説明、摩羯の説明、という
順序なのだが、
”行然和尚まとめ部”では、これがきれいな間逆となっていて、
鉤行の説明と摩羯の説明を2段で説明、驢馬の説明と金剛・力士の
説明を3行の文で説明、狛犬の説明、提婆の説明、無明の説明、
酔象の説明、玉将の説明、となっているのである。無明と提婆まで
ま逆なのは、”みごと”と感じられる。
 そしてその後に、行然和尚まとめ部では、付け足しが有り、
泰将棋の説明、中将棋の説明、日本将棋の説明となっている。行然
自身は、泰将棋説明は後期大将棋の説明のつもりで、書いていたと
見られる。駒の枚数を、後で水無瀬兼成が改竄したのである。
 今回の論題は、以上のように、”摩訶大大将棋口伝部”と”行然
和尚まとめ部”とで、

項目の並べ方については、以上のように、完全にひっくり返されて
いる、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の、その点の理由についてを論題

とし、更にそこから何が言えるのかを、本ブログなりに推定する。
 回答を先に書く。

行然和尚自体は、”行然和尚まとめ部”とは、完全に逆になった
文書を、水無瀬兼成に渡していると、本ブログは推定する。
水無瀬兼成が、著作権法の同一性保護を無視して、完全に項目の
順番をひっくり返して、将棋纂図部類抄に転載している

と、私は推定する。
 では、以上について以下、説明を加える。
 こう推定できる理由は、将棋纂図部類抄の

行然和尚まとめ部の項目を全部反対に直すと、曼殊院将棋図の完全
な由緒説明文になると、私は見る

からである。ちなみに、逆にして、更に泰将棋を後期大将棋に戻す
と、以下の項目順になる。

日本将棋、中将棋、後期大将棋、(ここで”摩訶大将棋”という、
大きな項目名を追加すると、以下)玉将の説明、酔象の説明、無明
の説明、提婆の説明、狛犬の説明、驢馬の説明と金剛・力士の説明
を3行の文で説明、鉤行の説明と摩羯の説明を2段で説明。

 以上のように、これは行然氏が水無瀬兼成に渡した文書が、本来、
曼殊院将棋図の由緒説明だったと見ると、ぴたりとつじつまが合う、
項目順になる。摩訶大大将棋口伝では、そのうちの、摩訶大大将棋
部分を、口頭で、行然和尚が水無瀬兼成に伝えて、水無瀬が内容を
書き取ったものであると見ると、話がきちんと合うのである。
 では、なぜ将棋纂図部類抄で、わざわざ行然和尚が作ってくれた、
”曼殊院将棋図の解説書”を、水無瀬兼成が、項目を逆転させて、
将棋纂図部類抄に載せているのかだが、

これは、泰将棋の補足説明のように、ぱっと見には見えるように
誤魔化すため

と考えれば、前後の関係から説明が付く。
 摩訶大大将棋の駒種と、泰将棋の駒種は、王子等を除けば似てい
るので、摩訶大大将棋の、ユニークな駒種の動かし方ルール補足は、
泰将棋の駒種の動かし方ルール補足に、ほぼ転用できると、水無瀬
兼成はみたのであろう。そして、それに続く後期大将棋の説明部分
を、泰将棋にすり替えて、泰将棋の説明のようにしてしまったので
あった。しかしこの、渡された文書の内容の改竄については、
水無瀬もさすがに気がとがめたか、

水無瀬兼成は、行然の原文の項目順番を、もっと複雑に変える事は
せずに、完全逆順の改竄程度で止めた

ようだ。
 そして、この事からは、当然だがようするに、

泰将棋は曼殊院の将棋図には、もともと書いていなかった

と、明確に推定できると、私は考える。
 なお、行然まとめ部の逆天原文は、ボロボロの同一文書等が、恐ら
く曼殊院に有ったのだろうと私は見る。ただし、出だしの日本将棋の、
後ろ三行は、”当世”という書き方が、古文書としていかにも不自然
なので、だらだらと長い事もあり、ひょっとすると行然の作文なのか
もしれない。この”三行作文”は、”日本将棋の優秀性を強調”して
いるように私には読める。大阪城内には、豊臣秀次とは違って”将棋
は、日本将棋が一番”と信じている、秀次よりも更に怖いお偉方(豊
臣秀吉か?)がいて、それに逆らわないようにしようという、行然の
配慮だったのかもしれないと、私には察せられる。(2018/08/12)

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