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宝応将棋は、取り捨てなのか、持ち駒ルールなのか(長さん)

松岡信行氏は、2014年著「解明:将棋伝来の『謎』」に於い
て、”二中歴の将棋の記載のうち、終局条件を書いた、「相手を
裸玉にした側の勝ち」と、通常解釈される記載から、平安小将棋
の、持駒ルール有りが示唆される”との旨の仮説を発表している。
なお、2013年発行の「将棋の歴史」等で、遊戯史研究家の
増川宏一氏は、”持ち駒ルールが、西暦1500年頃の、厩図の
時代には、成立していたとの証拠が有る”と、松岡氏よりも著し
く遅いとする意見を、示唆している。
 以上のように、持ち駒ルールの成立年の説には、現状も大きな
バラツキがあり、近年、早期派が更に非常に早い成立を、示唆・
議論するようになって来ている。そこで今回は、表題のように
いっその事、唐の時代の怪奇小説である、玄怪録岑順の記載の元
になったと、仮説的に推定されている、

宝応将棋が、取り捨てであるのか、持ち駒ルール有りであるか、
どちらなのか

を論題として取り上げる事にしようと思う。
 最初に結論を書こう。
 怪奇小説から、元ネタの将棋の持ち駒ルールの有無を、

正確に特定するのは無理

であると私は見る。しかしながら、著作者の(伝)牛僧儒は、
玄怪録岑順の物語中では少なくとも、

”取り捨てルールで、通常玉駒の討ち取りで終わるところだが、
しかし、相手玉を裸玉にしても勝ち”という終局条件の将棋を
示唆するストーリーで、物語を描いている

と、私は認識する。
 では、以上の結論について以下に、説明を加える。
 実戦での描写が、より尤もらしく見えるように、元ネタのゲー
ムのルールが、改竄される可能性が、まま有るであろう事は、
小説の描写としては、当然予想されると私は考える。従って、

小説内の描写は(伝)牛僧儒が元ネタの、(仮説)宝応将棋を、
怪奇小説の展開上、都合の良いように変形した、玄怪録岑順物語
中の将棋でしかない

と見るべきだと見られる。ともあれ、将棋の中盤以降に対応する、
金象軍と天那軍の斬り合い場面の小説内での描写を、実際に調べ
てみた。それによると、東洋文庫版と、日本将棋連盟発行、
木村義徳氏「持駒使用の謎」で、それぞれ、”物語として”
以下のように口語訳されていると、私には理解される。

まず、東洋文庫版では以下の通りの表現である。
”しかし、まもなく天那軍は大敗して崩れたち、戦死者と負傷者
が床一面に倒れる。王はただ一騎で南に走り、(もともと5万人
居たと本ブログでは見る、天那軍の兵隊のうちの、残存兵である)
数百人は西南のすみに逃げ込んで、どうやら敵の手をのがれた。
 西南のすみには前から、薬を撞く臼がおいてあったのだが、王
がその中へ逃げ入ると、見るまに城壁と変わった。”

次に、日本将棋連盟発行、木村義徳氏「持駒使用の謎」では、
以下の通りの表現である。
 ”まもなく天那軍は大敗して壊滅し、死者や傷ついたものが地
にまみれた。(天那軍の)王は一騎だけ南に逃げ、(もともと
5万人居たと本ブログでは見る、天那軍の兵隊のうちの、残存兵
である)数百人は西南の隅に逃げ、辛くも逃れた。(以下は、
「持駒使用の謎」では省略されている。)

”室内床”が”地面”に変わっているので、東洋文庫版は将棋局
面の描写に近く、持駒使用の謎は、映画の描写で言えば”実戦争
場面へ、幻想的に切り替わっ”て描写されていると見られる。が、
注意すれば、この程度の差では、議論に影響は無いだろう。強い
て言えば、玄怪録岑順物語中の(伝)牛僧儒イメージ将棋と、
元ネタ宝応将棋とを、きちんと区別できるのは、木村義徳氏紹介
の、玄怪録の方なので、将棋連盟の図書の方が、少し良いかもし
れない。
 何れにしても、描写から次の事が判る。つまり、小説中では、
1)ヤラレた兵は、持ち駒として兵が再利用されず、ヤラレた、
だけである。
2)5万人居た味方が、負けた方は1/100程度に戦力が縮小
するという、取り捨てルールと良く合う消耗戦が行われ、天那軍
が、”ジリ貧負け”したと表現されている。
3)王が一騎つまり、裸王となった所で、そうなった方が投了す
るというゲームと、この物語の文学表現には親和性がある。
4)天那軍の王は、この戦闘では、ジリ貧負けで降伏し、天那王
は一目散に、金象国軍の追っ手を逃れて退散した。ので戦力を立
て直せば、次回の対局がまた行なえる状況となった。逆に言うと、
王が討ち取られて負けというケースがある、国の滅亡が結果とし
て起こる戦闘が、別のケースに存在すると、(伝)牛僧儒も想定
していると推定できる。ので、第2局以降が存在するようにする
ためには、話の流れを第1局目が、天那国は滅亡しない”裸王に
なっての負け”にするように、作者が工夫した結果が、この小説
で表現されていると、明らかに見る事が出来る。
以上1)から4)より、ルールは取り捨てルールで、”玉詰みで
勝ちかまたは、裸王で勝ち”の将棋とすれば、この物語の話の上
での展開とは、親和性の良いものである事は明らかだと私は思う。
つまり、玄怪録岑順物語では、

取り捨てルールの将棋でありかつ、”玉詰みで勝ちかまたは、
裸王で勝ち”のルールの将棋で、戦闘がシミュレーションできる
ような、戦争を物語として記載している

と言う事である。ようするに、玄怪録岑順物語「小人の戦争」は、

寝返りが、その社会でたまたま、余り無かったとすれば、普通の
戦争としては、ごく尤もらしい物語展開と言える

のではないかと、少なくとも私は思う。
 裸玉の結果となったのは、合戦を更に続けるように物語の上で
するためのものだが、松岡信行氏の言うように、この物語から、
将棋ゲームを作成するデザイナーが、日本の宮中等にもし居ると
すれば、

ジリ貧負け表現とほぼ同じ、相手裸王勝ちルールを、玉詰みと、
同時にor条件で取り入れるだろう

という予想が出来る事も確かであろう。つまり、将棋や象棋を、

取り捨てルールならば相手王を討ち取るか、相手裸玉で勝ちの、
論理記号orで結ばれた終局条件ルールにするのは古来より自明

というだけの事ではないかと、私は大いに疑う。
 私に言わせると松岡氏は、前記の玄怪録岑順の描写では、明ら
かに天那国の王は、普通に必死に逃げようとしているように、描
かれているのに、”王は相手の駒では、条件によっては取れない”
という、妙な補足ルールを勝手に作り出して、”二中歴の将棋で、
相手裸玉勝ちしか終局条件は無い”と、決め付けた上、持ち駒ルー
ルの存在の、根拠にしようとしているのだと思う。なお”逃げる
途中で、天那国王は、自国の敗残兵と、常に行動を共にした。”
といった、ユニークな記述も特に無い。従ってこのゲームには
持駒ルールは存在せず、取り捨てルールで、玉の討ち取り勝ちも
存在するとして、相手裸玉でも勝ちというゲームになっている事
は明らかである。ようするに松岡説では、”平安将棋の親”であ
るはずの、玄怪録岑順の小説それ自身に、取り捨てルールも、玉
詰みルールも事実上、書いてあるのではないのか。しかも、この
ルールが、典型的な実戦闘のイメージと、さほどの違和感が無い
事をも、確かに玄怪録岑順の怪奇小説自体で、はっきりと示して
いる訳だから、少なくとも松岡説を取るなら、

平安小将棋は、取り捨て将棋であると解釈するのが、最も楽な事
だけは確か

という事なのではないかと私は、少なくとも個人的には疑うので
ある。
 よって、松岡氏が「解明将棋伝来の謎」で述べている、西暦
1200年頃に、平安小将棋が持ち駒ルールであるという仮説は、
”玄怪録岑順物語が、そのゲームを成立された源”という彼の論
との間に、自己整合性が無いため、今の所私には、

信用できない。

 つまり以上の事から、日本の小将棋が持ち駒ルールになったの
は、文献として普通唱導集の”小将棋”で、”駒損が僅かなのに、
相手が、銀を桂馬に替えられて、私に言わせれば、不思議なくら
いに、困った顔をした”との意味の、唱導が記載された、

西暦1300年頃から徐々に、取り捨てルールから持ち駒ルール
へ移行したという説を、他の証拠の材料が乏しいために、今の所
取らざるを得ないのではないか

と、私にはやはり思えるのである。(2018/09/07)

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