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裏二文字金也歩兵駒が西暦1010年代発明時、どう読み下されたか(長さん)

前に述べたように、本ブログでは日本に将棋が伝来して、日本の
推定博多で五角形駒が発明されたとき、発明品には歩兵駒の裏は、
金将と書かれていたと見る。そして、この駒を使用した棋士から、
”配列時に元から有る、不成りの金将と間違える”とクレームが
つき、”金也”に名称を変えたとした。五角形駒の発明は、西暦
1015年1月~2月と推定され、恐らく刀伊の入寇の後の、ま
とまった将棋駒の生産時、西暦1020年年初には、楷書の金也
にしたのであろうと、本ブログでは見る。
 また本ブログでは、この金也の字には、ユーザー棋士の願いが
こめられており”金”で貨幣や黄金ではなくて、”金の将校”が、
しっかりイメージされなければ、ならないと見る。しかしながら、
将という字が省かれてしまうと、以上のように、ユーザーから、

願掛け五角形駒として、歩兵の裏の字の表現が弱い

と再度、文句が来る可能性が無いのかという、懸念があるとも考
えられる。つまり生産者である、(推定)博多の写経所寺院では、
こうした、(推定)”藤原隆家および、その配下からなる将棋棋
士としてのユーザー

武者”の要望を、どうにかして処理しなければならなかった

はずである。では、どのようにして、ほぼ西暦1020年までに、
将棋の歩兵駒の意匠を、

金也から、更にユーザーが喜ぶように変えたのか

を、今回の論題とする。
 最初に回答を書き、後で説明を加える。

”金ニ也”と、金の右下にカタカナのニを補い3文字駒を作った

のかもしれないと、本ブログでは推定する。では、以下に説明を
加える。
 この論のポイントは、興福寺出土駒(第1期)の頃、すなわち、
西暦1058年には、実際に出土していると本ブログでは見なす、

金也駒のこの字は、普通は”金(レ点)也ノ”と読まれたはずだ

という事である。つまり、元から金将で、成りは無い駒とは違い、
成りで発生する金であると表現されているという事である。しか
し、これでは、将の字が無いので、推定されるユーザーの苦情に、
的確には答えられていない。しかし、我々も以上のように金也の
字を解釈するのは、五角形の

経帙牌が将棋の駒であって、将棋のルールブックではない

と、決め付けているからである。つまり、”金也”を、武者の階
級マークのようにイメージするからである。しかし、恐らく大宰
府の武者から、上記のように文句を言われたとき、博多の写経所
の五角形駒を発明した僧は、雲南大理国将棋(原始平安小将棋、
持ち駒無し8×8升目32枚制)が説明会で、北宋交易商人(一
例)周文裔によって、ルール紹介されたときに、経帙牌を、自ら
がルールブックとして使用した事を、思い出したのではないか。
つまり、歩兵について記入した、ルールブックとしての経帙牌の
裏には、ルールとしての、雲南の将棋の歩兵の成りを、

”成ハ金将也”等と書いた可能性が高い、

と、私は考えるのである。すると、武者から来た、歩兵駒の裏の
表現についての苦言は、

成った駒名を書くのではなく、表の”歩兵”に引き続いて、ルー
ルを、短文で書けば解決できるのに、発明者は当然気がついた

に違いない。つまり、歩兵駒は、表に歩兵、裏に金也と書くので
はなくて、

表に歩兵、裏に金ニ也と書いて、歩兵ガ金ニ也(也は成ルの洒落)

と、ユーザーである藤原隆家の部下の武者に読ませれば、問題が
解決すると、当然見たのではないか。そこでとりあえず、
歩兵の裏は、西暦1020年の頃、

”金也”から”金ニ也”と3文字にした事があった

のかもしれない。だが、当時は漢文が標準的書き文字で、補うカ
ナは書かなくても普通だったので、発明者から聞いただけで、

将棋駒ユーザーの武者は、金ニ也と書かなくても、金也でも、
”金(レ点)也ノ”とは読まずに、”金ニ也ル”と読んでくれる
ようになり、元の字に戻すことが出来た

のではないか。そのため、そんなやりとりが有った以後は、元の、
裏2文字”金也”歩兵駒が、歩兵である大宰府の武者が、活躍し
て金将に成る事を予言する、縁起の良い物品として、急速に普及
したと、考えられるのではないか。以上のように思えるのである。
 以上で論題には答えたと考えるが、この事は以下の意味を持つ
と思う。
 即ち以上の経過は、駒の裏に成りの字を、どう書くかという点
に関して、日本国内の事情で、自由に取り替える事ができた事を、
金也という表現が、少なくとも示唆しているように私には見える。
そもそも既に、有る程度使用淘汰された”おおもと”が、外国に
有りそれが輸入されたなら、”輸入した後都合で変えた”ような、
金也などという、ゲーム具の意匠として、説明文のような成り表
現の有る駒など、普通は出土しないのではないか。

つまり、特に歩兵の裏二文字金也駒が、11世紀中の物品として
出土しているという事は、裏側に成り駒を書くという手法が、
外国の伝来技術では無く、日本国内での発生である事を強く示唆

しているように、私には見えるという事になるのである。
(2018/09/19)

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