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徳島県川西遺跡奔横駒。奔獏駒だったとして大大将棋の駒なのか(長さん)

徳島県徳島市近郊の中世鎌倉時代中期の遺跡、川西遺跡より
出土した奔駒を、本ブログでは”不成り奔横”と読んでいる。
しかしながら、研究者によっては本横や奔獏と読むケースが
ある事については、以前述べた。本横と読めば、従来の将棋
種に前例が全く無いので、この駒の価値が減じる事は無い。
しかし、

奔獏と読むのは、大大将棋の駒ではないかとの推定が出来る

ので、旧来の将棋種の知見中に、いっけんするとこの発見が、
収まってしまう、かのようにも見える。
 今回は、この徳島の奔駒が、本ブログが考えるように奔横
ではなくて、仮に奔獏だったとして、この”出土駒が大大将
棋の駒である”と結論できるのかどうかを、論題にする。
いつものように、最初に回答を書いて、その後説明を加える。

結論できない。大大将棋は鎌倉時代には、存在しなかったと
考えられる。

では、以下に、以上の結論について、本ブログの見解を述べ
る。
 理由についても最初に答えを書いてしまうと、大大将棋が
室町時代以降に発生したと、少なくとも本ブログでは考える
のは、

盲猿の成りの山母が、室町時代にならないと、発生しない
妖怪、”山姥”の事

だからである。
 なお、山姥が山母になったのは、将棋の駒は音読みの方が、
体裁が良いので、字を姥から母に入れ替えたためと見られる。
 また、大大将棋の盲猿の成りが、山母であるというのは、
初出が安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄である。
 大大将棋が、鎌倉時代に無いと言うのは、この点の指摘が
最も平易だと、私は考える。なお、本ブログでは、大大将棋
の発生は、水無瀬兼成が生まれた後であろうと、推定してい
る。というのも、
(1)泰将棋の猛鷲が、本来の天狗と対になる、2回走り駒
の元駒のように見え、
大大将棋は、水無瀬兼成が、泰将棋を作成する少し前に、
プロト泰将棋として、助成者が水無瀬兼成が、豊臣秀次に献
上するための、泰将棋作りの手助けをしたという痕跡の疑い
を持っているからである。その他、大大将棋が古くないとい
う証拠として、以前このブログでは、
(2)盲猿という駒名の、古猿よりも起源が前の将棋種であ
るかのように、見せかけては見たものの、そもそもその駒名
自体の、将棋駒種名としてのおかしさ。
(3)老鼠の成りの、摩訶大大将棋の蝙蝠は、大大将棋成立
時の、古時鳥と、各々の将棋種成立よりも後の時代に、交換
されているではないかとの疑い。
以上の3点を挙げた。
 が、(1)~(3)は、山母の論よりも判りにくく、少な
くとも、川西奔”□”駒の時代に、大大将棋が無いという
論理としては、”盲猿の成り山母の室町時代以降の発生”の
方が簡単だろう。
 何れにしても仮に、徳島県川西の奔”獏”駒が、大大将棋
の駒であると将に主張する研究者が、今後出てくるとすれば、

山母の出現時期の問題に、言及すべきである事だけは確か

であろうと、本ブログでは断定する。つまり、奔獏だったと
しても、出現時代が早すぎて、大大将棋の駒では、説明でき
ないと見られるため、

川西の奔横駒は、たとえ奔獏と読むのが正しかったとしても、
将棋史に重大な影響を与えた発見である事に、変わりは無い

と、この出土を、少なくとも本ブログでは、極めて高く評価
しているという事に、なるのである。(2018/10/15)

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