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15×15升目の後期大将棋の駒は、なぜ130枚なのか(長さん)

将棋の駒が40枚なのは、平安小将棋が36枚で、飛車・角を
加えて40枚という説が強い。飛車角を入れた原因は、通説で
は、ルール調整。本ブログの見解は、龍王・龍馬駒を加える事
が本質とされ、どちらが正しいかはまだ、良くわかって居無い。
 他方、本ブログの主な題材である、大将棋の駒数の理由に
ついては、大阪電気通信大学の高見友幸氏の先行研究がある。
 ”摩訶不思議大大将棋から62を引いて後期大将棋の130
枚、また62を引いて平安将棋が68枚”というものである。
 なお本ブログでは、平安大将棋について、11升目3段配列
で、注人が2枚加わった将棋が、平安大将棋に先行して試作さ
れ、11×6+2で68枚であったという説を、前にこのブロ
グで表明した。また、摩訶大大将棋については、24節気と
72候の和の96枚の2倍にしたと、表明している。しかしな
がら、本ブログではこれまで、

後期大将棋の130枚制については、特に原因を追究した事は
無かった。

そこで、今回はこの、後期大将棋の駒数130枚の原因につい
てを、論題にする。
 何時ものように、最初に回答を書く。
結局中将棋が、 92枚制で12×12升目で144升目。
摩訶大大将棋が192枚制で19×19升目で361升目。
そこで、(92,144)、(192,361)という点を、
方眼紙等にプロットしてから直線で結び、後期大将棋の升目数
が15×15=225なので(X,225)という点を通る

X座標を求めると、129.327・・となり、4で割って
2余る整数の中で、最も近いものが、130だった

ので、後期大将棋の駒数を130枚に調整したと、本ブログで
は推定する。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
 まず、後期大将棋の駒数は、普通に配列すると、必ず4で割
り、2余る数になる。
 理由は、5段配列だからである。仲人を注人にして1枚中央
に配列したなら、平安大将棋のように4で割り切れたのであろ
うが。相手の角筋を止めるため、仲人の2枚化は必然だったの
であろう。

だから、後期大将棋の駒数は12の倍数には、できなかったと
みられる。

暦学や陰陽道の匂いが、本ブログで推定する、普通唱導集の
の大将棋よりも薄いのは、そのためだろう。つまり後期大将棋
が、108枚とか、144枚といった駒数にならなかったのは、
15升目化のためだったと、本ブログでは考える。中央筋に空
白升目を作るのは、玉頭が薄くなるので、見た目に悪く、その
選択は、小将棋のように、全部を空白升目にするわけにも行か
なかったので、無理だったのであろう。
 では、なぜ暦に関連の薄いのは仕方ないとして。12の倍数
にならない、4で割って2余る数の中で、特に130枚を選択
したのかだが。

単純に、中将棋と摩訶大大将棋の中を取った

のではないかというのが、本ブログの見方である。後期大将棋
が成立した時代には、既に、

中将棋の猛豹は猛将の洒落で1段目に落とされており、92枚
制になっていた

と、本ブログでは見ている。そこで普通唱導集大将棋に対して、
獅子、猛豹のほかに、悪狼、猫叉、石将、不足の歩兵を加えて、
22増の130枚制にし、見た目にも中将棋と摩訶大大将棋の
全体配列形と同じにすると、冒頭の

結論で述べたような計算で、駒数が確定するような型になった

のではないかと、本ブログでは見るのである。
 なお、この計算には有る程度の算数の力が居るので、ひょっ
とすると、後期大将棋や摩訶大大将棋には、時の北朝武家方の
暦作成に関連している人間が、ゲームの作成に関与していた事
も、疑われるのかもしれない。
 つまり、後期大将棋、摩訶大大将棋は、空白升目が袖に計4
升目できた中将棋を、形を類似にさせながら、升目を多くして
作成した結果、

後期大将棋は、(92,144)、(192,361)という
点を結んでできる直線にほぼ乗る、(130,225)という
座標のX値である130枚になった

のではないかと、本ブログでは推定するのである。(2018/10/19)

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