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京都市鳥羽離宮駒のうち54次、59次の発掘分は新しいらしい(長さん)

京都市伏見区竹田内畑町(当時)の鳥羽離宮跡からは、王将駒、
裏と(?)歩兵駒、不明の駒の他に、裏面墨跡有り金将駒と、
草書今金成り銀将駒が出土している。このうち、後二者の発掘
時期はやや早く、1980年の6月前後とみられる。発掘者は
この2枚については、京都市埋蔵文化財研究所のようである。
また、この金銀駒については、”鳥羽離宮の東殿から出土した”
という話がある。
 従来、私はこの遺跡の史料については、平安時代末期から、
鎌倉時代初期のころの物ではないかと個人的に認識していたが、

少し違うようである。

裏面墨跡有り金将駒が第59次発掘分で鎌倉時代末期、
草書今金成り銀将駒が第54次発掘分で南北朝時代のもの
であるとの旨が、以下の成書に記載されていた。

筑摩書房(1980年12月)「将棋文化史」山本亨介

上記本の、第一章の”三.各地の出土駒”の所に載っている。
なお、発掘次数は、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”
(2003)、天童市将棋資料館に載っていた。
 出土年が、山本亨介氏の「将棋文化史」の方の出版年といっ
しょなので、当時、ホットな話題であったようだ。山本氏の本
には、それなりに詳しく書いてある。
 時代の推定は、共出土した瓦器から推定したらしい。

草書今金成り銀将駒は、成りが極崩された字であるが、”と”
ではなくて、やや細長く変形した”今”の崩し字である。


そしてこれは、南北朝時代の駒のようである。”と金だけしか、
南北時代には出土していない”との旨の、

本ブログの以前の記載は、不鮮明

であった。極崩し字ではあるが、南北朝時代には、成りは
麒麟抄の記載通り、ばらつきの有る、金の崩し字のようである。
 それ以上に、問題だと見られたのは、鎌倉時代最末期頃とみ
られる、

裏面墨跡有り金将駒には、裏面に何か書いてある事

である。なお、上記成書には、裏の墨跡について言及は無い。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、裏面のスケッチと、墨跡の
コメントが書いてある。
 言うまでも無いが、

飛車と書いてあると、この駒が中将棋の初出になり、中将棋の
推定成立年が、数十年早くなる。

残念ながら、何と書いてあるのか判別は困難である。個人的に
は、両面金将かもしれないと、以前から思ってはいたが。鎌倉
時代初期の物ではなくて、晩期のものだとすると、飛車であっ
たら、中将棋が存在する事になり、大きな問題が残った事にな
る。
 山本亨介氏の著書が、この年に出版されたのは、幸運だった
と言えるだろう。遺跡の記録も、発掘年より経つと、だんだん
記載がぼんやりとしてくるのが、

将棋駒の遺物の場合現実

だ。何せ、関心を持つ者が、かなり限られているからだ。
 ちなみにこの本には、同じ京都市の南区久世上久世町城ノ内
の上久世城ノ内遺跡の酔象駒が、六勝寺研究会によって発掘調
査され、表面の酔象は、赤外線写真で判定された旨が、載って
いた。年代は、瓦器の種類によったとある。以上の事から、古
い将棋史書は、史料程度に貴重な物であるという、良い例だろ
うと、山本亨介氏の成書を読んで、私は思い知らされた。
(2018/10/21)

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