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兵庫県日高町深田遺跡歩兵駒。駒字が下にズレて歪んでいる訳け(長さん)

西暦1986年頃発掘された、表題の兵庫県日高町深田遺跡の成り
が良く判らない、歩兵と言われる駒は、西暦1094~1096年
を示唆する年号木簡が共出土し、西暦1058年物の、奈良県興福
寺の出土駒が発掘されるまで、日本で最古級の駒史料とされてきた。
 オモテ面の中央すこし下に、歩兵の歩の下の”少”の最後の画と、
兵の”丘”の、最初の画が薄っすらと成書、天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒の写真でも検知される。そのため歩兵の歩の字が、幾分か
下から書き出した上に、兵の字が駒の下に少し歪んでいるように、
一般には見られている。
 しかしながら、歩の上の空白が少し大きすぎ、兵の字を書く余裕
が、余り無くなった、不自然な書である。今回は、どうしてこのよ
うに、兵庫県日高町深田遺跡歩兵駒が

歩兵の字が駒全体から見ると、下にズレたような配置になったのか

を論題とする。
 回答を最初に書き、そのあといつものように説明を加える。
以下回答である。

この駒は磨耗しており、下部が、元々の長さよりかなり短くなって
いる。恐らく歴代の駒としては、4.5cm程度の最長の駒で、
全体として、その後の標準的な、日本の将棋駒に比べて、やや大振
り、将棋盤もそれなりに升目が粗く、少し規格が今とは違っていた

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログによると、日本へは立体駒を使った、原始平安小将棋が
1セットだけ伝来し、西暦1015年の年初頃に、五角形駒が、九
州恐らく福岡県の博多付近の、国内で発生したとみている。従って、
西暦1094~1096年に、この日高町の深田駒が作成されたと
すると、発明から約80年後である。
 以下はあくまで本ブログの見解に過ぎないが、駒が五角形である
という点では、80年という時間は、安定性が発生する長さだが、

駒の全体的な大きさと、将棋盤があるとして、その規格がきちんと
決まるには、やや時間が足りない

のではないかと考える。つまり、国府に駐屯する平安時代の播磨の
武士が、この駒を使い、紙ないし布、あるいは木の切り株等に、線
を引いて作った、将棋盤を指すとした時に、

但馬武士には、将棋駒が五角形(まだ、寸胴形)とすべしという常
識は存在したが、駒の全体寸法については、聞き取りが曖昧であっ
ても、特におかしくなかった

ように、私には思える。いわゆるゲーム用の駒の大きさであるとの、
認識程度だったのであろう。
 そのため、

たまたま、一辺の長さで30%位大きく、体積や重さで、奈良興福
寺の将棋駒を標準としたときに2倍強ある、将棋駒セットが、
日高町では作られた

としても、さほどおかしくは無いように、私には思える。
 我々が、この歩兵の字を見て、奇妙な書体に取るのは、

標準的な将棋の駒を見慣れているために、この駒の大きさを
過小評価し、駒の下部が磨耗して消失しているのに気がつかず、
駒字が下に、普通にはみ出しているだけなのに、
兵が下で、寸ヅマリになっているように、間違って見ているだけ

なのではないか。
 つまり、現在この遺物が、普通の駒の大きさに見えているのは、
単に長い年月で、木片が磨耗して下部が無くなって短くなり、たま
たま大きさが、普通なように見えているだけなのではないか、と言
う事である。
 ようするに駒木地が大振りだと、比較的駒字のスペースには余裕
が出来るので、

単に歩兵の歩の字の書き出しが、他の将棋駒より幾分下から始まっ
ているだけではないか

と言う事である。
 この事から、日本の将棋駒は五角形駒が発明されてから、

100年位は、良く見れば気がつく”初期の混乱”が有った

と言えるのではないかと、私は考える。つまり、”五角形駒が伝来
品ではなくて、日本での発明品だとすると、初期の混乱が無いのは
おかしい”という指摘は、

事実認識自体が間違い

なのではないかと、私は個人的に、疑っているという事である。
 なお私は、興福寺出土駒の西暦1058年物のオモテの、

崩し字”也”(成りの意味)のばらつきも、元駒金将と各駒の成り
の金将の表現を別にして、配列時、どちらがどちらかが、裏返さな
いと判らないような、めんどくささを無くすための工夫の手法の、
具体的内容に関する、初期のばらつきによる混乱

だと考えている。ただし興福寺出土駒の、この現象については、

”棋士への教育のための、也の字の付け加えであり、そのバラツキ
は、原始平安小将棋(のゲームとしての定着)が、発展途上であっ
たことを示す”

との説が根強い。しかし、日高町深田遺跡歩兵駒の大きさが、普通
より大きくなる事により、初心者の将棋ゲームに対する理解が、よ
り深まるとは考えにくい。こうしたバラツキは、五角形将棋駒とい
う、ゲーム器具が、発展途上であったのであって、原始平安小将棋
は、ルール自体は格別複雑でもないので、48年や80年経った後
には、初心者も駒を手にした時点で、混乱は特に無かったのではあ
るまいか。そもそも、少なくとも本ブログでは、原始平安小将棋の
ルール自体は、立体駒を使った輸入時点で、外国(ここでは大理国
と推定)で確立されており、内容は”自殺手と裸玉の優先度”といっ
た、細則を除けば、ほぼ、安定していたと見ているのである。

”『日本の将棋駒は、五角形にすべし』と言うから、五角形駒にし
ただけではないか。大きさを、他の地方とピタリとあわせろとまで
は聞いてない”と、日高町深田遺跡の歩兵駒を作成した駒師の声が
聞こえる。

私にはこの駒を見ると、そのように感じるのである。(2018/11/24)

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