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奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡から後期大将棋の駒は出土したか(長さん)

日本共産党機関紙赤旗の2018年11月16日号に、増川宏一
氏の筆で、将棋が歩んだ歴史(3)が掲載されている。その2段
目の最初方に表題のように、”奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡か
ら後期大将棋の駒が出土している”との旨が、簡単にこれだけの
内容で記載されている。が、

この駒は、二中歴の大将棋そのものの駒であると思われる。

なお、奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡からは、

”両面草書飛龍駒”一枚しか、今の所出土していない。

よって、増川氏の言う、改良(後期)大将棋の駒とは、この駒の
事であると、まずは確定する。
 今回は、この増川氏の見方が、

誤りであろう

との観点から、以下解説する。
 何れにしてもこれについて、これ以上の説明が、新聞赤旗の該
当記事には見あたらず、これ以上の相手の主張は述べる事ができ
無いのだが。新たな説を、歴史研究者の間では、当たり前に知ら
れているかのように、啓蒙目的での日刊新聞に、増川氏が制限な
く書いているのは甚だ妙なので、以下私の主張も一方的に、どん
どん書いてしまうことにする。私の説の根拠は主に、

奥州藤原氏館跡から出た遺物は、二中歴の元になった、挙中歴、
懐中歴の著者の三善為康の時代と、二中歴が成立した鎌倉時代初
期の間にピタリと収まるとみられる事、

以上の点である。
 では増川氏は何を考えて、安土桃山時代に初出の、後期大将棋
の駒と考えたのかだが。これは私には、平凡社版2013年の
”将棋の歴史”と、今回の2018年11月の赤旗記事の間で、
増川氏の論を聞き取ったのは、前に本ブログで紹介した大橋文書
に関する講演会の一回だけだったので、ほとんど判らない。

両面飛龍駒の時代解釈が変わってきたとしたら、かなりのトピッ
クのはず

だが。日比谷図書館での大橋文書の講演会では、この両面飛龍駒
に関して、増川氏の言及は、特に無かったと思う。
 ただし、

二中歴の”大将棋の成りは玉将と金将を除いて、金将である”と
いう仮説が、同文献の(小)将棋のルールが大将棋には援用され
るというあくまで仮定仮説から、現在流布している事だけは確か

である。よって、両面飛龍なら、一般に流布した二中歴大将棋の、
全部金成りルールと合わないと考えると推論すれば、赤旗に増川
氏が記載した論が出てくる事が、一応納得できる。
 だが、本ブログでは、この考えは

誤りだ

と見ている。理由も、どんどん主張しないと、ここ以外には出て
こないため、主張の場としての学会を解散させるという割には元
気な、声の大きい増川宏一氏の論文の説だけを、どんどん載せて
いる日本共産党機関紙の赤旗に、このまま圧倒されそうだ。そこ
で、少なくともここでは、とっととすばやく、結論を書いてしま
おう。

二中歴の大将棋の記載の最後の10文字”如是一方如此行方準之”
は誤記とされているが、”如是行方一方如此成方準歩兵”と変更
するとほぼ意味が通り、”(注人)不行傍立聖目内成金将”と意
味が同じで、成りのルールが書いてあると、私は見ているから

である。なお、”(注人)不行傍立聖目内成金将”は、
”(仲人)不行傍立聖目内成酔象”と書かれた、安土桃山時代、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋と後期大将棋に挟まった
注釈部に書かれた文句を、注人を仲人へ、酔象を金将に、私が入
れ替えたものである。なお、この一行については、大坂電気通信
大学、高見友幸氏の別解釈もある。ここでは、関連しないので、
高見氏の説の紹介は略す。
 話を元に戻すと、

少なくとも、二中歴の最後の十文字は未解読なので、二中歴大将
棋のルールには、不明の点があると見なさざるを得ず、この赤旗
の増川氏記載の記事ように、飛龍の成りのルールを、将棋に準じ
て金将と、最初から決め付けてはいけない

という事である。
 なお、不明十文字の解釈には”これは先手側の配列等を示した
ものなので、後手の初期配列等は、先手側と点対称にする”と解
釈する別説(決め付けに近い主張も、web上に散見される)
がある。ちなみに、二中歴大将棋は線対称陣形なので、先手後手
を点対称で並べようが、盤中央で折り返し対称で並べようが、
いっしょで、この説が正しいとして、敢えて注記しているとすれ
ば、理由は謎である。また”行方”を動かし方のルールと解釈し、
先手、後手とで駒の動かし方ルールが同じであると解釈する見方
もあろうが、日本の将棋の駒は、位置不変性という特徴もあり、
先手と後手とか、盤上の位置とかで、動かし方のルールが変化す
るという懸念も、元々乏しいし、その観点の、二中歴での提示は、
あるとすれば不自然で、唐突である。
 つまり、私の解釈の方が仮に正しいとすると、注人は成りのパ
ターンの一例の例示であり、他の、平安大将棋で新たに現われる
駒の成りは、そのコンセプトに準拠するという意味。すなわち、

”飛龍は、横方向へも走るし人間駒でも無いから、二中歴大将棋
では、不成りである”と、解釈できると言う事

である。だから両面飛龍駒は、

後期大将棋にも、1320年頃のバージョンは謎だが普通唱導集
大将棋にも、そして問題の平安大将棋の駒としても、全部使える

と言う事である。
 しかし、発掘された遺跡の時代は、ほぼ二中歴の大将棋の時代
に合うという事である。だから、可能性としては、

奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡の両面飛龍駒は、二中歴大将棋用
の駒の可能性が最も高い

と、いまのところ見なさざるを得ないのではないかと、少なくと
も本ブログでは、以上のように考えているのである。
 なお、二中歴のルールに関する”如是一方如此行方準之が、
誤記である”という認識は、増川宏一氏自身が、ものと人間の文
化史23-1、将棋Ⅰ(1977)、法政大学出版会で指摘した
のが、最初とみられる。
 ここ数年の間に、増川氏自身が”後手の初期配列は、先手側の
陣と点対称である”との説に、確定させたかどうかは謎であるが。
何れにしても新聞赤旗に、これ以上の事が全く書いていないため、

赤旗2018年11月16日10面の志羅山遺跡の両面飛龍駒に
関する主張は、執筆者の従来の結論を、充分に踏まえて居無い疑
いが拭いきれない

と、今の所読手としての私には、見なさざるを得ないと、結論す
るしかないというわけである。(2018/11/28)

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