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豊臣秀吉は、何を考えて玉将/王将を大将に変えようとしたのか(長さん)

豊臣秀吉と将棋との関係と言えば、日本将棋の変種である、
大閣将棋と、表題の”玉/王駒を大将に変えろ”との発言で
有名である。水無瀬兼成が、豊臣秀次が助成して、玉駒が
双玉将の、将棋纂図部類抄を著作した、西暦1592年頃か
ら約3年たった、西暦1595年宣明暦5月5日の、朝廷の
女官の日記、”御湯殿上日記”に、秀吉の大将駒の提案に関
する、朝廷への報告の記録が載っているのが、元史料である。

なお変更前の駒”わうしやう”は、玉将ではなくて、王将

であると見られる。
 これ以上の事が、少なくとも私には判らないが、安土桃山
時代までの、京都からの出土駒に今の所、玉将が無い所をみ
ると、大坂府島本町付近に在住していたとみられる、水無瀬
兼成の将棋纂図部類抄の玉駒表現が、全部玉将であるという
事に関して、”王将で無いのは何故か”というニュアンスで
の朝廷からの問い合わせが、水無瀬兼成の監督者と見られて
いた、豊臣秀次等宛てに有ったのだろう。そのためその返事
を親分格の、

豊臣秀吉が、京都の朝廷へ使いを出して、回答を伝えたとい
うような、感じの日記の記載

のように思える。
 では、豊臣秀吉は、玉将・王将以外で、何かネーミングを
する必要があったと見られる、将棋の玉駒を

大将がよいであろうと豊臣秀吉名で述べたとされるのはなぜ

であろうか。以上を、今回の論題とする。
 回答を先に書いて、説明を後でする。
 恐らく、豊臣秀吉は

大坂に幕府を開く事を、真剣に考えていたので、大坂の将の
洒落で、大将という名称を考え出したのではないか

と、本ブログでは考える。では、以下に説明を加える。
 少なくとも、朝廷へ豊臣秀吉が、将棋の玉駒に関して、考
えを述べる、使いを出している事実が、御湯殿上日記に記載
されているという点は、史料として

たいへん貴重なものと言わざるを得ない

と私は考える。
 なぜなら現実、京都府から王将駒以外の将棋の玉駒は、未
だ全く、出土していない。だからその謎を解くための、少な
いヒントの一つとみられるからだ。
 他方、後奈良天皇が詔で”酔象を除いて日本将棋を指せ”
との命令を出している事は、複数の江戸時代の文献に記載が
あり、また一乗谷朝倉氏遺跡の酔象駒の出土が有る以上、事
実の可能性が極めて高いとみられる。つまり、少なくとも、

日本将棋の周辺の、小型の将棋のルールのうち特に、構成駒
の内容に関して、戦国時代には、朝廷が介入する事があった

とは、言えるのではないかと私は考える。豊臣秀吉の大将発
言は、配下の大名を集めた宴会等で、余興で出しているもの
ではなく、朝廷へ報告しているというスタンスのものである。
だから、

将棋のルールは、安土桃山時代の時点でも、朝廷に、形式上
かもしれないが、管理の権限があった

と考えるのが、自然なのではないか。
 そして朝廷は、将棋のルールの詔関連の記録が、今では行
方不明となって、経緯に関する証拠が、全く無いのが、甚だ
残念だが

それまで、玉駒は王将一本であるべき

との立場を、恐らく貫いていたのではなかろうか。それが、
豊臣秀吉の家の秀次の、お抱え貴族である、藤原氏流水無瀬
家の、水無瀬兼成によって、公然と双玉が推薦され、水無瀬
作の将棋駒も、京都市中へ出回るようになり、朝廷内でも、
近衛信伊や雅朝親王等が購入し、後陽成天皇自体も目にする
までに、なってきたのだろう。そのため、力関係では、
武家の豊臣にはその時代は、とてもかなわないとはいえ、
対面上、双玉推薦に関する見解の問い合わせを、天皇の名で、
豊臣秀次等へ一応したのであろう。
 そして豊臣家では、秀頼が水無瀬駒を多数購買していたが、
豊臣秀吉が、水無瀬兼成駒を購入したり、兼成を直接抱えて
いるわけでもなかった。また、将棋に関する秀吉の興味度に
ついても、秀吉自体、大閣将棋の事実上の下手を持って、将
棋家の者と、たまに将棋を指す程度の、低い棋力だったので、

豊臣秀吉は、公平な第三者の立場に近いと評価されるだろう
と、豊臣家では考えたのだろう。

”それなら王将でも玉将でもなく、第3の大将が良いではな
いか”と、第三者としての私見を京都の朝廷に、秀次からで
はなくて、秀吉の方から伝えたのだろう。なおこの時点で、
豊臣秀次が切腹する、2か月ほど前の事であった。豊臣秀吉
は、大坂に幕府を開く事を、この頃真剣に考えていたのであ
ろう。

 しかも、唐突ではなく、秀吉の回答の発進地は、その大の
付く地名、大坂からであった。

 合戦を模したゲームの、玉駒が征夷大将軍であるのは自然
で、自分が征夷大将軍格。その自分は大坂に居るから、大坂
の将で、大将ではどうですかと、

豊臣秀吉としては、自分の野望もこめて、朝廷にはさらりと
返事をしたつもり

といった所なのではなかろうかと、私には思える。つまり、
大江匡房による標準平安小将棋の設定を発端とする、朝廷と
藤原家との間の古代、西暦1080年からの軋轢等に、豊臣
秀吉は、西暦1595年の時点で加わるつもりは当然無く、
恐らく仲裁するつもりで述べた、私見が伝わっているのであ
ろう。なお事の発端の、将棋史の内容については、秀吉は一
例として、水無瀬兼成本人の家伝にあるのを、人づて等で、
本人から聞き取ったと見られる。
 大将は武家専門の言葉であるから、主張してみた所で、
京都の公家の間で流行るのかどうかは、謎であるのだが、

豊臣秀吉は、彼なりに良く考えて、”そこそこ”の答えを
発している

と、私は個人的には、この答え方を一応評価している。
 つまり大坂幕府というのが、もしこのあと成立していたら、
日本将棋の玉駒は、玉将、王将の他に、大将のケースが在り、

天竺大将棋の攻め駒の大将は、別の名称にしなければならな
かった

のかもしれないと言う事であろうと、私は考えるのである。
(2018/11/04)

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