SSブログ

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の年代推定は可能か(長さん)

現時点で表題の神奈川県鎌倉市御成町にある、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋のバージョンを
記載したとみられる木札は、中将棋の初出文献である遊学往来
の年代から、南北朝時代であると、本ブログでは仮定している。
 しかしながら、共出土物やその他の情報から、別の方法で、
年代が推定できるのが好ましい。今回は、それが出来る可能性
について、現時点の成書程度の情報を元に、推定してみる。
結論を先に書き、その後で説明を加える。

建武の新政の頃の物で無い事は確かだが、その前後、鎌倉中・
後期か南北朝時代かの特定は、関連する武家がどちらの時代に
も健在と見られるために、困難と思われる。

では、以下に説明を加える。
 今の所、私が知りえる限りで、成書等として簡単に入手でき
る文献で、最も有力な手がかりになるのは、成書

よみがえる中世(3) 武士の都鎌倉(平凡社・1989年)
の3武士の屋敷・庶民の住まいの”武家屋敷の構造”、
河野真知郎氏執筆の、終わりの方の”屋敷の変遷”

である。その他、その後出た単行本に、屋敷の持ち主の諸説が
述べられているものがある。
 元に戻すと、河野真知郎氏執筆の成書の”武家屋敷の構造”
での記載で大切な事は、今小路西鎌倉市福祉センターの直ぐ隣
の遺跡、今小路西御成小学校遺跡で”北武家屋敷”と、
河野真知郎氏が命名したらしい、大きな屋敷が、

貴族的な武家屋敷

であると言う点である。なお、御成小学校の敷地を発掘すると、
北西に北の武家屋敷、西に南の武家屋敷、南部に町屋が出現
すると、河野真知郎氏は前記成書の中で述べている。言うまで
もなく、駒数多数の将棋は、武家よりも貴族に好まれる傾向が
有るのは、少なくとも安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋馬日
記から明らかである。
 従って、確定的ではないが、この中将棋木札は、
鎌倉市福祉センターの北隣にある、鎌倉市市立御成小学校から
発掘された、2軒の武家屋敷のうち、北側の屋敷と何らかの
繋がりがあると考えるのが、かなり自然なように私には思える。
 そして重要な事がもう一つある。河野真知郎氏によれば、
この北側の屋敷は、建武の新政期の戦乱等による火災で、一旦
焼失した可能性が高いが、

持ち主により、南北朝時代に再建された疑いがある

と言うのだ。つまり、北条得宗家とは繋がりが無い武家豪族な
ので、中先代の乱以外の時期には、追放された一族、つまり得
宗北条氏とは関連が薄かったため、南北朝時代になり、鎌倉府
の政権が安定すると、疎開先から帰ってきて、建武の新政で焼
けてしまった自分の屋敷を、建て直す事のできる一族だったと
いう事である。該当する武家一族としては、たとえば千葉氏と
か、あるいは西暦1285年頃の霜月騒動で、鎌倉幕府から
既に追われていた、安達泰盛方に付いた一族の関係者か、そう
いった者の家だったという事になろう。
 だから、

この木札を、建武の新政の混乱期、西暦1333年~1340
年位の間には作れないが、西暦1305年~1333年または、
西暦1340年~1380年には、どちらの時期でも作れた

と、今の所するしかないと考えられる。ちなみに木札自体は、
北の武家屋敷のある、今小路御成小学校遺跡からは出ておらず、
南隣の福祉センターにあった、町屋ないしは、粘土の採掘現場
の跡からの続きのような所で、出ている。が、至近であるので、
この程度の距離なら、元々の持ち主の居場所から外れていても、
常識的に見て、矛盾する距離では無いように私には思える。
 以上の事から、普通唱導集が成立した西暦1300年前後か
らは、後なのであろうが。そこから南北朝時代の後期頃の、
西暦1380年までの間の、建武の新政の動乱期を除いて何時、
木札が使われたのかは、現地の出土の様子から割り出すのは、
今の所困難で有るように、私には感じられる。

現物も紛失してしまったため無く、手がかりが今の所余り無い
のは、とても残念

な事だと思う。(2018/12/18)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。