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大日本史料の後鳥羽上皇時代の今小路。京都なのか鎌倉なのか(長さん)

前に述べたように、大日本史料の西暦1221年宣命暦7月
13日の所に、隠岐に流された後鳥羽上皇の所に、僧侶で、
小将棋棋士の清寂が訪れて、小将棋等の棋士としての自慢話
をするくだりがある。
 当時、有力な棋士が、”今小路殿の御所”で、少なくとも、
AクラスとBクラスの順位制を取っており、清寂はAとBと
の間位であると、自慢するという内容で、始まるものである。
ところで、本ブログでは、将棋駒遺物の出土状況から、この

今小路は、神奈川県鎌倉市の今小路西御成小学校遺跡付近の
”殿”を指すという論を、その後展開した。

ただし、鎌倉市の今小路という道路名が、史料に現われるの
は、江戸時代頃からと聞く。なお地名辞典の類には、
”吾妻鏡に今大路と書いてある”との旨を、指摘するものも
ある。
 他方、本ブログでもだいぶん前に書いたが、この”今小路”
には、もう一つ候補地がある。

京都市の元誓願寺通りの一帯で、堀川今出川の交差点付近

である。
 そこで今回は、この小将棋の専門集団が、鎌倉時代の初期
に存在した”今小路”とは、鎌倉市なのか、京都市なのかを
論題とする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。

今の所、京都御所と、さほど離れていない京都市の元誓願寺
通りの一帯を指すと見るのが有力だが、考古学等の進展によ
っては、ひっくり返る可能性もある

と、本ブログでは見る。
 では以下に、説明する。
 後鳥羽上皇は天皇の時代に、京都に居たのだから、京都市
の堀川今出川付近が、清寂が西暦1221年に言った将棋場
に、ま違い無いと言うのが、現在の将棋史会では有力のよう
に、本ブログでは認識する。

が、この決め付けは甘い

と思う。なぜなら、
後鳥羽上皇は、隠岐に流される前だと思うが、しばしば病気
の治療のため、栃木県現鹿沼市の医師、中野智玄の所に行っ
ている事で知られているからである。よって

途中で、鎌倉に寄っていた事は明らか

だ。だから、神奈川県鎌倉市の今小路西にゲームセンターが
有って、そこの話を清寂がしていたとしても、後鳥羽上皇に、
話が見えないはずが無いと、私は思う。
 そもそも、鎌倉市今小路西御成小学校遺跡近傍では、将棋
駒も出土しているし、今回のように、近接する鎌倉市福祉セ
ンターからは、専門棋士に見せるための、ルールを書いた
木札らしいものさえも、出土している。
 ただし、

まだ、清寂が自慢していると見られる、8升目制の原始平安
小将棋の存在を示唆する、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の
タイプの小将棋駒は、鎌倉市のここからは出土していない。

そこで御成小学校に近接する、鎌倉市市役所が改築する等が、
将来もしあるとすれば、そのときには、現在の栃木県小山市
の小山市役所前の発掘調査のごときの発掘調査が、鎌倉市で
も行われるだろう。だから今度は、

現状の鎌倉市の出土駒よりも、少し古いタイプの将棋駒等の
出土に、期待したい

ところだ。
 他方、京都市の方の今小路を意味する、元誓願寺通りのあ
る、堀川今出川交差点付近からは、遺物としての将棋駒は、
出土しては居無い。が、

北野天満宮という、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元史料の
出所、曼殊院関連の支配神社と、京都御所との中間という、
いかにも、将棋と関連が有りそうな場所

にある。おまけに、栃木県の小山市を南北朝時代にも支配し
た、小山氏の当時の9代目の殿様、小山朝氏と関連のある
堀川関白の近衛経忠は、あだ名の通り、京都の堀川今小路近
傍にも屋敷が有った可能性が高いと、私は思う。なお何回か
紹介したが、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、南北朝時代からの
遺跡から、摩訶大(大)将棋系の裏一文字金角行駒が出土し
ていて、間接的に京都市に関連するように、私には見える。

だから、遺物が出てないからと言っても、京都市の今小路が
小将棋棋士、清寂の言う今小路の将棋場で無いとは、言い切
れない。

 どちらも有力だが、今の所は今小路という道路名の史料が、
神奈川県鎌倉市の今小路につき鎌倉時代に無いという理由で、

仮に京都市に、軍配を挙げて置くしか無い

と、私は思う。しかし、鎌倉市の今小路西からは、繰り返す
が多くの遊戯類の史料が出土しているし、30年前に出土し、
本ブログでは最近、解読に成功した、

木札の内容は、来場した専門棋士に、周知徹底させるような
しろもの

である。だから今の所、岩手県平泉町中尊寺境内遺跡のよう
な、駒の大きさが、種類で余り変わらない将棋駒が、鎌倉市
の今小路西御成小学校付近から出土しないと言っても、

大日本史料の西暦1221年に記載の今小路が、鎌倉市の、
今小路の通り付近の施設を、指さないとは断言できない

のではないだろうか。逆に言うと、遊戯遺物がこれだけ鎌倉
市の今小路西御成小学校遺跡近傍から、出ているのであるか
ら。ほとんどもう2~3点、どれも同じ大きさの将棋駒が、
たとえば、鎌倉市市役所の改築工事の発掘調査で、将来出土
すると、鎌倉時代の西暦1221年記載の、今小路は、鎌倉
の今小路の事として矛盾が無い事に、なってしまう可能性が
高いような気がする。そうなると、

現行の”今小路”という地名の初出が、大幅に繰り上がる点

に、遊戯史以外の他の分野、例えば都市の史学家等も、注意
が必要だと言う事になるだろう。
 以上の点から見ても、神奈川県鎌倉市御成町出土の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札の内容は、
都市の歴史学等、他の分野にも影響を与える、重要な遺物で
あった事は、明らかだ。行方不明の問題の木札が、早く見つ
かってほしいものである。(2018/12/19)

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