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連座(宝珠系・クチナシ)型囲碁の脚。戦国期の付喪神絵に有る(長さん)

前に、連座(宝珠系・クチナシ)型の将棋・囲碁盤の足は、水無瀬
兼成等の、水無瀬駒が出現した時代に、北野天満宮の絵巻の、碁盤
の足近似で、発生した疑いがあると述べた。
 この説によれば、戦国時代には、連座(宝珠系・クチナシ)型の
将棋・囲碁盤の足は、無かったはずだ。
 しかし、さいきん私は、絵巻物を調査して、奈良の東寺の僧侶が、
戦国時代(16世紀)に書いた絵と、考えられている、岐阜県の、
崇福寺所蔵の”付喪神絵(つくもがみえ)”の中に、16世紀

戦国時代に、連座(宝珠系・クチナシ)型の、囲碁盤の足が書かれ

ているのを発見した。
 器物霊の妖怪が、囲碁を差している、戦国時代成立の絵巻らしい。
その付喪神絵の上巻第7段という場所に、その絵は有る。妖怪は、
他に盤双六・博打・絵合をして、遊んでいるという絵とのことだ。

この囲碁盤の足は、多角形なだけでなくて、縦スジが入っていて、
たしかに、江戸時代の碁盤や将棋盤の足の絵に、いっけんして似て
いる。

付喪神絵.gif

 よって、

水無瀬駒の時代から、将棋盤の足の”クチナシ”になったとの以前
本ブログで記載した内容は、

事実として、誤り

だ。
 少なくとも京都の東寺では、囲碁盤の足は、ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰで、増川宏一氏が示唆しているように、仏座の蓮座
を象ったような、デザインが、普通であると、

16世紀には認識

されていた。水無瀬兼成は長寿であるので、こうした仏教界でだけ
通用したのかもしれない常識が発生したのが、彼が生まれる以前と
までは、断言できない。しかし彼が若い頃から、水無瀬駒を作成し
ていたという記録は、今の所無い。だから、彼の作成した将棋駒の
出現より後に、今の将棋盤の足の形、連座(宝珠系・クチナシ)型
が成立したとは、この絵図からは考えられない。
 何れにしても、法曹界では将棋盤とは、逆L字の足ではなくて、
仏座の蓮座であると、戦国時代には既に考えていたようだ。ただし、
厩図の絵師等、僧侶で無い階層の者は、その時点で、くちなしでは
なくて、逆Lと考えていたとも私には認識される。
 ようするに、

僧侶の常識が、安土桃山時代以降に、社会を制圧する傾向が有った

とは言えそうだ。
 つまり江戸時代になり、寺社の力が、幕府と結びつく事によって、

仏教の影響力は、室町時代後期から戦国時代に比べると、江戸時代
の方が強くなり、時刻の制度へ影響力を持ったり、囲碁盤・将棋盤
の足の形を、仏教界の常識流に決めてゆく等の、浸透力を発揮した

という事なのかもしれない。
 その結果が、逆に江戸幕府が崩壊すると、廃仏毀釈に繋がったと
いう事なのではないだろうかと、私には想像される。(2018/12/28)

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