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赤旗”中国文物の権威は大将棋進化を遅延”説は大理説に合う(長さん)

昨年の後半の事だったが、

増川宏一氏が、政党新聞の赤旗の金曜特集に、大将棋の進化と、
将棋の伝来元を結びつける、平安時代の記憶が中世に残存

という視点での、最新の彼の説を発表している旨、本ブログで
も取り上げた。”マルクスもレーニンも、将棋を指す”という、うわ
さ話を書いた短歌が有るらしいが、中国人では無いので、この
説は、外国の共産主義思想とは、関係が無い。中国共産党よりも
日本共産党の方がレベルが上(私は論の実在と真偽未確認)と
いう風説(?)とは、一応つながるらしいが。
ようするに、この政党新聞の、この記事のこの部分の狙いは、

将棋伝来元が、中国中原ではなくて、東南アジアであるとの
増川宏一氏の持論や、大内延介氏の説等を、補強するのが狙い

とみられた。
 表題のように、平安小将棋の伝来バージョンが仮に、中国中
原の物であるとすれば、平安時代の日本の知識人には権威があ
り、改変を阻害して

平安大将棋の発生や、その変化を遅らせるはずのため、
中国中原起源ではなくて、東南アジアとみるのが妥当との主旨

であった。今の所、本ブログで前に述べたように

陰陽五行説を、日本の伝来将棋の権威に、更に優先させたと考
えれば、大将棋の変化挙動は、平安時代の伝来元の記憶を残す
とは、必ずしも言えない

という点は間違いないと、私は個人的にみる。そのため、

他説を完全否定できるわけではないが、将棋伝来元の中国中原、
東南アジア、そして本ブログの言う”大理国(雲南)起源”と
3つ並べて、順位をつければ、”大理国(雲南)起源”が一位
で、他2説が2位になるという、相対的な程度に関する差位は、
実は付くのではないか

という予測について、以下述べる。

 理由を結論的に最初に述べる。
中国中原についての推論は、増川氏の思考に一理ある。が、
東南アジアの文物だとすれば、陰陽五行説という中国の文化と
の整合性は、最初から、日本の中世のゲーム・デザイナーには
中国に対して、整合無理な圏外文化圏の物と認識されてしまい、

初めから諦められてしまうので、改善そのものが、なされない

のではないか。その為に実際に行われた、大将棋の陰陽五行説
とのマッチング進化が、東南アジア起源としていまうと、むし
ろ、やや起こりにくくなるのではないか、とも考えられるから
である。
 では、以下に説明を加える。
 赤旗の昨年の”将棋の歩み”に関する、増川氏の中世の大将
棋の発生進化に関する、以上の論を読んだ時点で、私には、

彼の東南アジア説を補強するための、”勝負手”を繰り出した

ように見えた。中国伝来説への攻撃材料としては、筋が細いと、
平安小将棋と五行との不完全な対応から、そのように思えたか
らである。平安小将棋の最下段の駒名が、5宝という考えは、
本ブログも指摘したように、根拠となる文献が、伝来時期と大
きく違う等、不可解な点がある。そもそも、馬や車の仲間が、
どうして将の類と横並びなのか。
 つまり、伝来最初の将棋は、陰陽五行説物としてはイビツな構
造なため、正しい陰陽五行説に沿う、平安大将棋を作成して、

より、中国文物としての権威を、日本で新たに持たせるという
プロセスは、どこから将棋が伝来したにしても、自明に近いほ
ど自然

と、私には感じられたからである。
 東南アジア説からの、中国起源説への攻撃アイテムとして、
さほどの力が出るとは、昨年の時点では、少なくとも本ブログ
には感じられなかった。
 しかしながら、今にして思うと、

中国の物だから、難が有っても手直ししないで置こうという動
きや、作用が、完全にゼロと言うわけでもなかった

と、私も考えるようになった。

そう考えた文化人も、鎌倉時代に皆無と証明はできない

だろう。つまり、大将棋の進化にとって、伝来将棋が中国起源
であるという事は、余りプラスにならない事は、増川氏の言う
ように確かだ。
 他方今度は、日本の将棋の伝来元が、東南アジアだとしよう。
そうしたときに、大将棋類の進化にとって、増川氏のイメージ
したように、プラスなのかと言うと、

増川氏の言うようには、東南アジア伝来元説にとっても有利に
はならない要素も有る

と、私には思えてきた。結論に述べたように、
鎌倉時代の将棋のデザイナーは、中国とは全く無関係な文化圏
から、日本の将棋が伝来したとすると、中国文化への同化は、

最初から中国文化に近くする事は諦め、”これはこれで、元々
そういう物だ”という感覚で、処理してしまう

恐れがあるのではないかと、私には思えてきたからである。
 無論、それでも当時中国文化圏の一部であった日本の将棋な
らば、”日月星辰の動きに則り、陰陽五行の理に適った、ゲー
ムで無ければならない”と考えるゲームデザイナーが、全く無
いとまでは、私も言わない。しかし、

最初からの諦めムードは、有る程度予想されるだけに、中国
文化圏から来た文物に比べて、実際起こった大将棋の変化挙動
を、より説明し辛くなる事は確か

なのではないか。
 だから、結論で述べたように、中国でも東南アジアでもなく、

中国文化圏の隣接地帯から、日本の将棋がやって来たとした場
合が、実際の大将棋の変化を説明する際には、どちらかと言え
ば一番有利

になるのではないかと、私は最近考えるようになったのである。
 なお、近年の説では、日本の将棋の伝来元については、イン
ド以東については、日本自体も含めて種々あるが、時期につい
ては、北宋時代との説が、いまでは基準点になった。そこで、
その時点で

中国人にとっては異民族の、元王朝は除く、中国の王朝が適宜
最大版図であったときに、時に領土内に含まれていた周辺地域

が、中国では無いが、中国文化圏である周辺地域であると見な
すのが、判りやすく妥当だろう。
 具体的には、余り強くなかった北宋王朝時代を、基準にする
ならば、

遼、西夏、大理、李朝ベトナムの4箇所のどれかという、
表現で、陰陽五行が支配する、中国文化の周辺地域と見て良い

のではないか。なお、朝鮮半島は中国伝来説に重なるし、チャ
ンギが固定化してから、日本の将棋になると言うのは、前世紀
の将棋Ⅰの増川推論から、大いに無理である。
 そこでこの中で、今も銀将駒の銀を連想させる、銀細工師が
居るという点が観光地として著名である。また11世紀の伝来
なら、航海術に長けた中国の交易商人による、大鏡流の表現で、
”藤原貴族の喜ぶ、誰も知らないような”異文化文物の長距離
伝来も可能と考えられる。そうであるならば、途中地域が跳ん
でも矛盾がないと、少なくとも本ブログは独自の視点で見るた
め、大理国を、日本の将棋の伝来元の候補の一つに挙げると言
うのは、ほぼ自明であろうと、私には考えられるという結論に、
やはりなったという訳なのである。(2019/02/03)

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