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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札盤目示唆しない訳(長さん)

現在の所、問題の神奈川県鎌倉市御成町の発掘遺跡の木札
には、将棋駒の種類は書いてあるが、将棋盤に関する情報
は無いとみられる。二中歴の大将棋で、初っ端に、”また
十三間の将棋があって”と書いてあるのとは対照的である。
 本ブログで、これが中将棋類だとするのは、獅子である
か狛犬か、猛豹の位置と総駒数、盲虎のルールの3項目の
記載とみられるものは、中将棋のゲーム性能を決める、概
ね、主要部分であると見ている点からの、推理にすぎない。
 では、木札に将棋盤の升目情報を書いて、15升目盤、
13升目盤、12升目盤のどれを、将棋の道具を運搬する、
ゲームセンター店側の使用人のウエイター・ウエイトレス
が、ゲームセンターの来客の所に持って行くのかを、木札
で、なぜ指示しなかったのであろうか。
 以上を今回は論題にしよう。
 最初に回答を書く。

木札が将棋盤とセットで使うものであり、客の前に置いた
状態で、将棋盤が中将棋の盤であるか、そうでないかは、
将棋盤自体を見れば、札を運んだ本人にも判るような木札

だったからだと、本ブログでは推定する。
 では、以下に説明を加える。
 今にして思えばだが、もしこの木札が、中将棋大会での
各将棋盤卓に、共通のルールが書いてあるとしたら、

”中将棋大会”とか”本大会規定”とか、木札の最初に、
書いてあるのが普通

だったように私は思う。
 しかし、各将棋盤卓に、個別にゲームバージョンを表示
するために使う、

駒数多数将棋の乱立時代、ならではの物品だった

としたら、中将棋の盤が置いてあれば、ゲーム種類の

大分類が中将棋である事は、ギャラリーにとってさえ自明

だ。逆に言うと、

この木札が作られた時点で恐らく既に、13升目型の平安
大将棋系ゲームは、鎌倉の今小路西御成小学校遺跡ゲーム
センターでは、盤の用意がないほど、廃れていた

と推定される。

12升目盤を読み間違えるとしたら、13升目盤くらい

しか無いからだ。このゲームセンターには、恐らく、将棋
用の将棋盤として、8×8升目、9×9升目、12×12
升目、15×15升目の4種類の将棋盤の用意があったの
だろう。今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターに出入り
する程度のレベルの客にとって、西暦1290年タイプの

13升目の普通唱導集大将棋には、自明定跡があって、ゲー
ム性に問題があり、対局を希望しても、誰にも相手にされ
ない

のは、少なくとも西暦1360~80年頃には、常識だっ
たとみられる。
 12升目盤が、仮に今小路西鎌倉市福祉センター遺跡で
出土した木札(当時は2片)といっしょに置いてあったら、
中将棋という大分類のゲームのうち、”92枚制へ陣弱体
化の改善した狛犬中将棋を、守り方盲虎強化型で指す”と
いうのは、

そこに居合わせた、マニア連中の誰にでも判ったこと

だっただろうという意味である。
 だから逆に言うと、盤升に関する情報が無く、かつ小型
で邪魔にならない大きさであるという事から、

問題の木札が、将棋盤とセットで、将棋場の雰囲気をかも
し出す、どの将棋種が指されているのかを示すアイテム

と見るのが自然であると、河野真知郎氏に知恵をつけても
らったからこそ、私には出来たことだったが、私には、今
ではそう思える。
 この木札は、今では将棋種が、完全に日本将棋の1種類
に固まってしまったので、たとえば20世紀には、全く
類似品に、お目にかかれなかった代物ではあった。が本ブ
ログのように、”大将棋の時代”の存在を強く意識すると
ともに、中将棋は、鎌倉時代末期以降の、ある決まった時
点で始めて発生したと、きちんとイメージしさえすれば、

鎌倉市の遺跡から出る物品が使われた時代は、中将棋の
初期の乱立時代に違いないと判るので、出てきて当たり前

の物と理解する事が、始めて可能になったというわけなの
であった。(2018/02/16)

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