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将棋史はモンゴル帝国の来襲時の史実を解明するのに役立つ(長さん)

通俗書で比較的昔の物だけだが、鎌倉時代にモンゴル帝国が
日本の九州に来襲したとき、

見たこともない鉄砲という兵器に日本の守備隊は翻弄された

といった事が記載されている。なお鉄砲の実体については、
火薬を使った火砲の一種で、包みが紙から鉄に改良されもの
である点は、前に本ブログでも述べた。
 実の所、この記載は

間違いである

と、私は考えている。
日本人は、朝鮮半島にモンゴル軍が攻めてきた頃から、

砲を使う事自体は知っていた

と見る。

鉄包みに改善され、機動力も増しているのに驚いただけ

であろうと見ると言う事である。答えを先に書いてしまうと、

普通唱導集の大将棋の唱導唄を、将棋史流で解析しているの
で、シャンチーとチャンギの砲は、日本の将棋士が蒙古来襲
の恐らくその少し前に知っていた

と考えられるからである。
 では、以下に説明しよう。西暦1300年頃成立したこの
史料に、仲人と嗔猪が腹を合わせて、桂馬を上げると陣は支
えられると記載されているのであるから、相手陣には角行が
有るのであり、よって竪行も有るから、横行は端筋方面に、
平安大将棋から移動していなければならない。つまり、龍王、
龍馬が有る可能性が高く、少なくとも釈迦の太子に成る酔象
が、普通唱導集時代の大将棋の中央に、入っているのは確実
だ。つまり象駒を、中国か朝鮮半島の、包や砲の有る外国の
ゲームを見て、大将棋に入れたと結論されるのである。
 またそもそも、仲人と嗔猪が腹を合わせるという戦法は、
朝鮮チャンギの卒同士の守りの手として良く出てくるし、桂
馬を上げて、仲人に紐をつけるのは、中国シャンチーで、卒
に馬の紐をつけるのと、類似の戦法である。つまり、普通唱
導集時代の大将棋の棋士は、しばしば戦法を、外国のゲーム
の戦法から、借りてきているという事で、それも、外国のゲー
ムを知っていないと出来ない。よって、モンゴル来襲時の頃
に、少なくとも大将棋のゲームデザイナーや、棋士は、シャ
ンチーかチャンギか、恐らく両方とも知っていると見られる。
だから、モンゴル帝国の来襲の頃に、

日本人が、火砲自体を全く知らないという論は成り立たない。

 なお、大将棋に砲を入れなかったのは、調整しても、攻撃
側過多になって、ゲームが作れない事が判ったからのはずで
ある。この点については、だいぶん前に本ブログで、
天竺大将棋に跳越え将駒が有り、砲駒を日本人が使いこなせ
ないわけがないので、鎌倉時代の大将棋に、砲が無いのは、
砲が日本人には異形で、理解出来ないと言うのが、原因では
無い旨を述べた記憶が有る。
 恐らく、中国古代・中世の戦法を、全く知らなかったら、
日本は来襲のときに、モンゴル帝国に勝てていたかどうか謎
だと私は思う。大掛かりな架台に、火薬の入った紙の塊を
セットして、城砦等に投げ込むトレビュシェットを使う中国
の戦法位は、北条時宗等も知っていたはずだ。
 通常の歴史の本は、通俗書ばかりで、専門書や、論文を読
んだ事が私には余り無いのではっきりしないが。”てつはう”
に関して、どの程度の事前知識が、日本の将クラスの人間に
有ったのか、論じたものは簡単には見つからない。史料が無
いと考えられている疑いが、あると思う。
 しかし、本ブログに言わせると、合戦と関連の大きい将棋
ゲームに、その情報が隠れて居無いわけが無いと思う。

普通唱導集の大将棋の唱導唄は、少なくともヒントなのでは
ないか。

 以上の事から判るように、単なる遊びの歴史の研究に留ま
らず、遊戯史の研究は、他の歴史分野の研究と、いろいろな
所で、繋がっていると知るべきなのであろう。(2019/02/21)

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