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新安沖沈没船将棋盤?以降に聖目3分割将棋台頭の訳(長さん)

本ブログによれば西暦1300年頃の普通唱導集大将棋
は、自陣4段、中間段5段の13升目将棋で、自陣段と、
中間段の段数に差が有った。それも理由で13升将棋は、
表題のように、西暦1323年前後の、新安沖沈没船で、
15升目将棋盤(?)が出土した頃から、後期大将棋の
15升目制へと、進化の歩みを始めたと見ている。
 そもそも自陣段と、中間段の段数に差が無い方が良い
のは、同じく本ブログでは、陣の印である聖目を結んで、

魔法陣型を象ろうとした

のが理由と言う事であった。つまり、易の類である

九星占いが、鎌倉末から、将棋棋士間で普及した為

と見るわけである。では、鎌倉中期まで、将棋棋士の階
層で、九星占いはさほど盛んでなく、鎌倉末期に台頭す
る理由は何かを、今回は論題とする。
回答を書いて、その次に説明を加える。

軍師が、地方の守護格の大名や、豪族間の合戦の運気に
関してする、戦の開始時点の九星占いが、鎌倉末期の混
乱の頃から、多く見受けられるようになった。
そのために、天一神の方向占いでは、ネタが不足するよ
うになって、九星占いが、広く知られるようになった為

だと考える。
 では、以下にざっと説明する。
 平安時代の、安倍晴明が活躍した陰陽道の盛んな頃に、
十二神将(天将)という占いが、有ったと聞いている。
そのうちの、天一神の方位に関する日の吉凶は、具注暦
にも記載されて、比較的初期に、一般にも知られていた。
この平安時代に具注暦にあった、天一神占いの特徴は、

凶となる方位が、客観的に天一神等の居る方向なので、
合戦の方位占いを、敵味方の軍師がそれぞれしたとして、
やり方が変わらなければ、凶の方位がいっしょ

だったとみられる。少なくとも、私が聞いた範囲では、
平安貴族が、いわゆる旅等で”方違え”をするのは、
天一神と称する、安倍晴明流の陰陽道で、12神将の
親分格の居る方位を、日の干支から計算して、避ける
というような、システムだったはずだからである。
 これを、

悪党が横行した鎌倉時代末期や、や南北朝の混乱の頃に
当てはめて、豪族が、他の勢力と合戦する場合に使おう
とすると、自分の軍師の思っている事は、敵側の軍師も
知っている事になり、そのような占い能力しかない軍師
を、合戦の前占いで雇っても、合戦には勝てない

事になると考えられる。軍師は軍匠を兼ねていて、合戦
の戦術を練る働きもしていたのだろう。だから、相手側
の軍師の知らないような、秘術を知っていないと、中世
の大名・豪族が雇い入れる事が無くなったのではなかろ
うか。
 他方、古くから存在したのだろうが、易の九星占いは、
西洋占星術といっしょで、合戦の将の生まれた時点の、
魔法陣の、特に中央の九星を基に、個人的なその年や
日の凶方を、

本命殺とか的殺と称して特定することができる。

これを、敵の将に当てはめて、主君に攻め方の方位を、
軍師が指示するような、占いが出来ないわけがあるまい。
 九星占いには、天一信仰の普遍的な神将・天将に関す
る、平安期普及の暦注占いには余り無かった、暦注外の
要素を加える事が、比較的容易に出来た。そのため特に、
中央政界の貴人に指揮されるのではなくて、地方豪族・
守護大名に統率された軍隊が、各地で衝突する事の普通
となった

政情が不安定化した鎌倉時代の末期の頃から、藤原一族
の貴族以外へも、文化が普及した

という定説は本当であろう。九星占いには、将棋の棋士
の階層である、武家・僧侶・豪商等一般人へも、元寇を
過ぎる頃になると、係わりが増えて、関心が増したので
はないか。その結果3×3升目の占い用の方陣盤も、将
棋指しが、良く見かける物品になったのではないか。
そのため将棋盤も、その形の方が、彼らには、より尤も
らしく見えるようになったのであろう。
 そうした状況で、12升目で自陣中間段が4段4段の
中将棋が流行ってきた。
 だから、その傍流に、少なくとも一時転落した小将棋
と、その後浮かび上がることの無かった大将棋も、その
将棋盤は、自陣と中間段が、正確に同じ段数の将棋盤に、

切り替わって行った

のではないかと、私は想像しているのである。(2019/03/27)

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