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南北朝時代の小山義政が鎌倉期大将棋を所持の理由(長さん)

本ブログでは、実際に栃木県小山市神鳥谷曲輪から
出土した、裏一文字金角行駒は、江戸時代の(一例)
十代将軍徳川家治期の模写物と、今の所疑っている。
 数メートル以内の精度で共出土した、女物の下駄
と櫛の破片と共に、室町戦国時代の廃尼寺、栃木県
小山市の青蓮寺の、

観光客用の由緒説明の陳列品の一部のように、出土
将棋駒が見えるため

である。いわゆる下世話に言う、寺の”宝物”の類
という意味だ。つまり

現物自体は、摩訶大将棋の角行で合っている

のではないかと私見する。
 ただし、

西暦1382年頃まで、小山氏当主の小山義政が、
普通唱導集大将棋を所持していて、その駒と形態が
近いという事実が、背後に有る

のではないかとも、疑っても居る。
小山義政の乱のときに、小山義政軍と戦って、甚大
な犠牲者を出した、武蔵武士の猪俣党の本拠地、
埼玉県児玉郡美里町の猪俣館で夏休みに、
普通唱導集大将棋の駒数に等しいと見られる、

108騎の兵の霊を慰めているという感じの、燈火
台に火を灯して祭る、猪俣百八燈を、”何時始まっ
たのかもはっきりとは判らない、昔から続けている”
(web。wikipedia”猪俣小平六”より)

という事実があるからである。西暦1381年の
乱の直後に、敗軍の将の城の宝物等に関しては、
勝者側に管理が引き渡されたり、事情を説明した上
で、親類で乱に係わらなかったものに引き渡された
り、それなりの情報交換が当然、有ったとみられる。
 前に述べたように、大将棋の道具があるという、
小山氏の誉れについて、勝者である猪俣党の誉れと、
合戦の結果に応じて同一視され、勝利者側の戦死者
の弔いに生かされたと、推定できるのではないか。
 なお、美里町の広木上宿遺跡の宝山寺跡から、
五色宝塔という、普通唱導集大将棋の将駒の種類を
連想させる、仏具が出土している。ちなみに、戻っ
て猪俣百八燈の、中央の大きな2つの燈火台は、
五重塚と言われていて、出土遺物の五色宝塔に関連
が疑われる。
 更には、小山義政本人自体が、第2次小山義政
の乱の直後に出家しており、猪俣党の戦死者の弔い
に対して、将棋駒の所有者が、係われる状況に、少
なくとも一時期有ったとみられる。そのためか燈火
台群は、五重塚から左右に、将棋の両軍の如くに、
54基づつ配置されていて、一般的に見て、配置に
将棋との関連性が疑われる。なお、南北朝時代の、
異制庭訓往来には、将棋は合戦を模したものとある。
 次にその他の美里町の史蹟として、小山若犬丸の
乱等に対応のためか、小山義政の乱鎮圧の首領、
鎌倉公方の足利氏満が、戦死者で満杯になった廃寺
宝山寺のほかに、大興寺を新設したとみられる点が
ある。また同町広木地区に有る摩訶池が、将棋の
摩訶大将棋を連想させる事など、関連性を疑わせる
ものが、他にも有る。特に最後に述べたものについ
ても、話として変形はしているが、

小山義政の将棋駒と、埼玉県児玉郡美里町の事物の
関連として

挙げる事ができると見る。つまり最後の池の名の由
来は、摩訶般若経の摩訶と、猪俣百八燈が、後期大
将棋とは違うゲームである普通唱導集大将棋が、
元ネタなので、130枚制の後期大将棋ではなくて、
摩訶大将棋なのだろうと、室町時代に勝手に誤って、
猪俣百八燈元ゲームを解釈したための、命名だとと
れまいか。つまり、

猪俣百八燈というのはあるが、猪俣百九十二燈が無
いのが根拠

という意味だ。恐らく本当は、普通唱導集大将棋の
道具を、小山義政は持っていたのだが、江戸時代ま
でには、角行の裏表がいっしょの、摩訶大将棋を持っ
ていた事に、話がすり替わってしまったのであろう。
 なお鎌倉幕府成立時の、下野小山氏の活躍と対応
して、武蔵武士、猪俣党にも鎌倉時代草創期の、
猪俣小平六の伝説がある。小山三兄弟伝説で、下野
小山氏を持ち上げるのと同様の理屈で、武蔵猪俣党
を持ち上げるのは充分に可能だ。従って、

猪俣百八燈を見れば、普通唱導集大将棋が見えてく
るという仮説は、充分成り立ち得るのでは無いかと、
私は思っている。

 よって私は、栃木県小山市が拠点の小山義政は、
普通唱導集大将棋の自己の所持の証拠を、地理的に
隣接はしていないものの、埼玉県児玉郡美里町に、
残していると、今の所見なしている。
 所でそう考えても、次の2点が、小山義政関連、
角行駒には疑問として残る。
①なぜ一文字の”金”に成るのか。
②西暦1290年の大将棋具を、西暦1382年と
いう、百年近く後に、どうして小山義政は持ってい
たのか。
 ①についてはだいぶん前に述べた。それによると、
麒麟抄に見られるように、南北朝時代に、駒数多数
将棋の成りで、金に成るものの種類がたまたま増し
たために、

西暦1290年タイプと西暦1320年タイプで、
普通唱導集大将棋の成りのルールが違い、小山義政
は、後者のタイプを持参していた

と、本ブログでは説明している。金成り駒の流行の
原因は、京都及び吉野の公家の、たとえば堀河関白
と言われた近衛経忠が、横行の中国語の意味を知っ
て、角行、竪行、横行を、西暦1333年の

建武の新政の頃の前後に、不成りから金成りに変え、
彼が作った駒を、小山義政が持っていた事情が有る

のではないかと、金成り駒が増えるメカニズムに関
しても少し前に、本ブログでは述べた。
 以上のようにして、摩訶大将棋の駒に、栃木県
小山市神鳥谷曲輪の小山義政館駒が、すり替わって
しまった原因は、角行が両方にあり、かつもともと、
全く裏表とも同じパターンだったとして、説明でき
るのではあるまいかと、思われる。
 次に、物持ちが良いにしても、100年近くある、
実際に使われた時期との差について、今回の題名で
ある②を、ようやくで恐縮だが、以下に論じる。
答えを先に書くと、
1)小山義政は先代の相続品を預かっただけという
のが半分。
2)小山氏自体が、鎌倉時代の旧家なので、南北朝
時代には、鎌倉時代の装飾物を家に置くのを好んで
いたとみられるのが半分である。
 以下に委細に説明する。すなわち1)から入ると、

将棋道具を贈答されるような動機付けの有る、小山
氏の南北朝期の殿様は、小山義政ではなくて、彼の
2代前の、数十年差が有る小山朝氏である

という点を、まず述べる必要がある。簡単に言うと、
小山義政は、完全に室町幕府派だったので、他の政
治勢力、たとえば南北朝時代の南朝方から、働きか
けを受ける動機が、基本的に無かった。その状況は、
彼の父の、小山氏政についても同じである。蛇足だ
が、彼の息子の小山若犬丸は、自身の勢力が衰退し
たので、自分の方から南朝残党を利用した。
 それに対して、小山義政の叔父で2代前の、小山
氏の当主で、中先代の乱の直後から、建武の新政
(西暦1333年)頃に、既に小山の殿様であった、

小山朝氏は、政治的立場が不安定で、転び易かった。

だから、たとえば南朝方の、先の関白近衛経忠から、

贈り物攻めに、されただろうと見るのは自然

だったのである。だから、小山義政の所持していた、
普通唱導集大将棋の道具は、西暦1381年時点で、
小山氏の手元に有った事は確かだが、

作られたのは、西暦1340年代頃とみた方が自然

だと私は思っている。つまり、

小山義政の持っていた普通唱導集大将棋は、不成り
駒の多い西暦1350年タイプではなくて、金成り
の多い西暦1320年型なのは、元々前の代の殿様
の所持品を、相続しただけだから

という事である。
 よって西暦1320年タイプのこの、かつては有
り、神鳥谷曲輪角行出土駒の元になったとみられる
普通唱導集大将棋駒は、西暦1340年代に、京都
及び吉野の公家で関白の南朝方、近衛経忠作の疑い
も、かなりあると言うことである。
 しかし、それでも、次の疑問が残る。
西暦1340年には、普通唱導集大将棋は廃れてい
たのに、なぜ喜ばれるだろうと思って、レトロな、
西暦1290年の記憶を散りばめたそれを、京都及
び吉野の公家の堀河関白、近衛経忠らしき人物は、
小山朝氏に贈答したと考えられるのかだ。つまり、

それでもまだ、だいたい50年位遅い

という意味だ。
 これについては、私はこう考える。
小山氏は鎌倉時代に源頼朝に早々に加担して、のし
上った、鎌倉時代の旧家だと、南北朝時代には見ら
れていた。
 だから京都及び吉野の関白、近衛経忠は、館の飾
り物として使用できる

鎌倉時代の栄華を象徴する物品を小山朝氏に送れば、
実用性が乏しくても、小山朝氏が喜ぶだろうと予想

してプレゼントした。
 以上のように考えると、西暦1381~2年頃に、
小山義政の館等に、西暦1290年頃最盛であった、
普通唱導集大将棋、ただし西暦1320年タイプが、
有ったとしても、矛盾がない事になるのではあるま
いか。
 つまりこれは先に述べた、武蔵武士、猪俣党にも
合戦後に写し変えられた”下野小山氏の、鎌倉時代
初期よりの栄光の歴史”から来ると言う事である。
だから今後、出土駒を探しても、普通唱導集大将棋
の遺物に関しては、

南北朝時代の遺跡からは、鎌倉時代から続いていた、
旧家のような所からしか出てくる事は期待できない

と、一応予想はされる。以上のように結論できると、
私は考えているのである。(2019/04/15)

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