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安土桃山時代の日葡辞典に中将棋が有る(長さん)

安土桃山時代最末期~江戸時代の最初期に、
ポルトガル人の宣教師の知識に基づいて作成された
とも聞く、日本語→ポルトガル語辞典に、将棋類の
うち、中将棋も”ちゅうしょうぎ”が読みとの旨で、
載っていると、最近詳しい辞書の幾つかで私は見た。

将棋のゲームバージョンの区分けがきちんとしたの
が、その数十年前であるという点から、驚くべき事

と思うので、その観点から今回は論じる。
 戦国時代まで、公家の日記に将棋とあっても、
日本将棋とは限らず、持ち駒タイプの平安小将棋か、
中将棋の可能性があり、最後の例が多いと聞く。
このような状態で中将棋という熟語を、外国人が
日本人から聞いて回るというのは、日本人にも確定
していない日本語を、発掘していると言う事だから

かなり異例だ。将棋という語を理解していれば良い

とみられるからだ。だから、
日本語→ポルトガル語辞書に、中将棋が載っている
のは、日本人の言葉を理解しようと言う意思とは別
の意図が有ると、私は思う。恐らく、

ゲーム具の外観に、欧州の来日者は皆驚いて、
”何だこれは”と思った

のであろうとしか、考えられない。
 何れにしても、辞書に書かれるほどであるから、
他に宣教師の旅行記も有ったに違いなく、その結果、

欧州人の多くは、日本の安土桃山時代に、中将棋の
姿を、ざっとはイメージ出来るようになった

と推定できると私は見る。日本人が、日本将棋と
中将棋を、分けて表現しなければマズイと考えるよ
うになったのも、以前に述べたように、”南蛮人の
渡来”以降に、間違いないと私は思う。
 そこで実際に、復刻書の一つである、岩波書店、
1980年発行の、”邦訳 日葡辞書”の中将棋
(CHUXOGUI)を見ると、”チェスに似た、
勝負事”の事との旨ある。ちなみに、将棋や将棋倒
しが別に有るが、日本将棋の方は、西洋チェスとは
比較していない。取捨てルールなのを、宣教師等が
実際に、日本人の中将棋棋士から聞き取って、確認
したのだろう。また、小将棋が(Xoxogui)
とされていて、”将棋に小将棋と中将棋が有る”と、
ポルトガルの宣教師は、説明されたのだろうと判る。
小将棋は将棋遊びの一種であると、解説されている。
ただし、小将棋は、”おしょうぎ”とは、江戸時代
草創期の西暦1609年頃には、呼ばれて居無い。

小将棋は、少なくとも近世には、”しょうしゃうぎ”
等と言われるようになっていたと、結論できる。

 なお、安土桃山時代に、西洋チェスと中国シャン
チーを、どの程度の日本人が、外見をイメージでき
たのか、史料が乏しい状態であると、今の所私は認
識している。特に、隣接する国のチェス型ゲームが、
ある程度、沖縄県以外で認知されていたとみられる
証拠が、余り見あたら無いのは、不思議と言えば不
思議な話だ。
 ちなみに、大将棋は日葡辞書には無いようだ。
近似する語としては、大将が”たいしょう”、
大将軍を”たいしょうぐん”と、たは”だ”と濁ら
ず、安土桃山時代の日本人は、発音していたらしい
ことが、日葡字典に載っているようだ。或いは、

大将棋も、”だいしょうぎ”ではなくて、
”たいしょうぎ”と、少なくとも濁らなかった

のかもしれない。ないしは安土桃山時代末には、

後期大将棋は廃れていたので、大は”たい”でも、
”おほ”でも、どうでも良かった可能性が高い

というのが、本ブログの見解だ。日葡字典にも、そ
の程度の物だったから、載せなかったのであろう。
つまり、大将棋は、

”タイシヤウギ”とカナがふられたり、
”オホシヤウギ”とカナがふられたり、
安土桃山時代末期の頃は、いろいろだった

のだろうという意味である。よって、

大将棋は事実として、一旦衰退したゲームの呼び
名なので、現代に蘇らせるとしても、現代人の都
合で読み方を、便利なように決めるべき

だと、私は見ている。
 蛇足だが、私には理由や規則が良く判らないが、
色葉字類抄は、どちらも”ヲ”とカナを振るので
あるが、大きいの大の時には、”うゐのおくやま”
の”お”に入れてカナは、何故か”ヲ”。小さい
の”小:読み『お』”のときには、”ちりぬるを”
の”を”に、必ず熟語を含めて漢字を入れて”ヲ”
と、こちらは正常にカナを振っている。大将棋は、
よって”おおしょうぎ”のケースでも、”ヲ”で
はなくて、当然”オ”の所に出現し、カナは、
これとは矛盾するが、”ヲヲシヤウギ”に、

仮想的に

なったはずだろう。
 また、日本語になったのが、より昔の単語に、
”おおきな”の形容詞の意味で”大”をフルとき
には”ヲヲ”とし、中国語から日本語に移行した
のが、平安時代以降の、”大きな”の意味をつけ
た熟語には、”タイ”と表記するという傾向も、
二巻物の色葉字類抄にはある。
 湯桶読みや、重箱読みは、やや少ないようだ。
ただし”ヲヲ”の割合は、中国語化が、明治時代
に進んだと聞く現代熟語よりも、割合として多い
と、私も認識する。よって、

ひょっとしたら、藤原頼長は”ヲヲシヤウギ”派
だった可能性が、否定はできない

と見る。しかし辞書の大象戯は、仮想的に、
色葉字類抄に存在したとすれば、象戯が平安時代
の新渡来の外来日本語であったため、音読みと解
釈されて、色葉字類抄では事務的に、

”タイシヤウギ”として、処理されてしまった

危険性も、結構有り得るように私は思う。
 元に戻るが、欧州人が、戦国時代中後期~安土桃
山時代前後に渡来したとき、中将棋に関心を向けた
のは、以上のようにほぼ確実と見る。だから、雪竹
老人西暦1565年写書の、二巻物、前田藩所蔵、
八木書店(2000)発行の、色葉字類抄”き”の
項目等に、中将棋最下段駒の一部が、雪竹老人によ
り、加筆されたのであろうと、私は考える。
(2019/04/19)

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