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宝応将棋が中国象棋の始祖になったらどうだったか(長さん)

本ブログでは、中国シャンチーの成立は日本の原始平安
小将棋よりも遅く、11世紀の終わり頃、イスラムシャ
トランジの成立は8世紀後半とみる。そこで、11世紀
の初め頃に、中国の北宋の中原では、改善が試みられて
はいたものの、アッバース朝の流れをくむ、アラブから
の移住者による、イスラムシャトランジが、それまでは
主に指されていて、中国南西奥地の山岳地帯で、
宝応将棋の進化型、大理国原始平安小将棋が、健在だっ
たと見ている。
 9世紀の初頭でも、基本的に同じ状態であり、晩唐の
中国中原では、イスラムシャトランジ、南西奥地の雲南
で、宝応将棋だったとみる。ただし、宝応将棋は宝玉類
で将棋具を飾るという特徴があり、唐王朝の皇帝等は、
中国人の多くは、ゲーム性能が低いため相手にはしなかっ
たものの、王室に南詔国からの贈呈品として、道具を
所持していたのだろう。しかし実際には、所持はしても
持っているだけであり、囲碁が主流で、唐王朝の宮殿で
も、余り遊ばれ無い状態であったと考えられる。である
から、宮廷に出入りする高官の牛僧儒は、宝応将棋を
題材に、玄怪録岑順(小人の戦争)が、書けはしたのだ
ろうというのが、本ブログの見かただ。
 しかし現在の定説は、

今の説明とは、全く違う。

宝応将棋は、中国シャンチーの初期の姿だとの立場が、
遊戯史学会では、未だ圧倒的に強い。
 では、定説が正しく、本ブログの説が間違いだとした
ら、中国の象棋・将棋は、どんな姿だっただろうかを、
今回は、

宝応将棋に砲駒を入れて兵卒4段で一つ置き配列にして

仮想のゲームのチェックをしたので、結果を紹介する。
結論から述べよう。

 最下段が、宝応将棋型の今とは全く違うシャンチーが、
現在まで、問題なく切れずに指されて、残っていたはず

である。では、以下に説明を加える。
 宝応将棋の配列は、いわゆる11世紀の初めに、イス
ラム国家に居住していたアル=ビルーニーが、インドを
訪問中に、四人制チャトランガの駒の動かし方ルールが、

象・車に関して反対になっている

と評したのに、近い内容である。つまり、シャンチーで
は、帥・将(王)が偏の動きに調整されたのは別にして、
仕は猫叉、象は跳び飛龍、馬は八方桂馬、車は飛車になっ
ている。それに対して、宝応将棋は王駒は多分玉将であ
り、この違いは後の調節として、現代に移行すると偏の
動きに調整されるとしても、仕も金将のような近王型の
動きであり、移行するには、猫叉に進化する必要が有る。
その進化は、一応出来るとしよう。次に象は、
上将で飛車、馬は塞馬脚のある八方桂馬へ進化と仮定、
車は、香車の動きで、河を渡ると猫叉の動きに成るへ、
進化するだろうと、仮定しよう。兵卒は中国シャンチー
の動きとしよう。
 だから、上記で特に象と車とに着目すると、現代化し
た状態で、

シャンチーの車が、進化した宝応将棋の象

になる。シャンチーの象が飛ぶ飛龍であり、進化した
仮想の宝応将棋の車が香車(成りは猫叉)で少し違う。
が、シャンチーの象と仮想の現代化の宝応将棋の車は、

ほぼ強さは同じ

だ。ただし、仮想の現代化の宝応将棋の車には、シャン
チーの象と異なり、玉守りの能力がぐっと落ちる。
だから、仮想現代化、宝応シャンチーは、王が対面して
も反則ではないし、

たぶん、九宮は無しにするという、調節が必要

とみられる。
 そうしておいて、兵卒の数は同じで跳び跳び型に直し、
初期配列も4段目にして、砲駒を、今と全く同じ配列、
同じルールで加えた、

アバウト、象車のアベコベ・シャンチーを指す

と、以下のような、戦形になる。

宝応シャンチー.gif

違いは、前に述べたが、雀刺し戦法が主流になるため、
端列に攻め駒が集中する事だ。
 このゲームを試しにしてみると、

ほぼゲームとして成立している事

が判る。そもそも、北朝鮮の象棋が、象・車配列を交換
できるルールなので、宝応将棋最下段型から出発しても、

微調整でゲームが成立するのは、当たり前

だと、私には予想されてはいた。
 従って、
中世の宋代に、進んだイスラム文化を吸収するという空
気が、中国では卓越しており、シルクロードで情報が入
ったとみられる、イスラム社会のシャトランジが、イン
ドも含めた、東南アジア各国の象棋類のルールを決めて
いるのと同じように、中国シャンチーの最下段配列の
パターンに、実際にはグローバルスタンダードに合わせ
るという意味で、取り入れられていたと見られる。そこ
で仮想的に、それが行われない”仮想の情報の遮断され
た世界”が仮に有ると、宝応将棋の最下段のパターンが、

取り立てて、欠陥があるわけでもないために、現代にも
生き残る可能性が、かなり高い。

以上のような、

今とは全く景色の違う状態が出現する

と結論できるのである。
 だから、宝応将棋は、文化の開放系の中国文明のもと
では、特に地続きなため

国力のある別の大国を、ないがしろに出来ない

という現実から、11世紀のインド型を、山間部のみに
残して、中国の特に中原では、東南アジアと同様に、消
えてしまった。以上のように、当然推定できるように、
私には思えるのである。

日本は島国だったので、他では消えてしまった、インド
古将棋の原形が、持ち駒ルールと、入玉ルールでカバー
された結果残っている

のである。指す人間が多いので、議論が全く見当たらな
いが。日本将棋は本質的に見ると”希少な文化”である。
よって今の所、危機感もあまり無いようだが、万が一に
も切れないように、大事にしたいものだと私は考える。
(2019/05/20)

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