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栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡井戸跡遺物各の成立年代(長さん)

以下あくまで私論である。本ブログでは、栃木県小山市
神鳥谷曲輪遺跡の出土遺物のうち、主に井戸跡から出土
の木製遺物を中心にして述べると、

カワラケと青磁以外は、小山市の青蓮寺存在期のもの

であるとの立場を取っている。以上が結論だが、以下に
説明を加える。
 小山市青蓮寺は、15世紀の足利持氏時代の、東京都
八王子の小山神社と同類の、宗教施設であろうというの
が、本ブログの見方である。それでも古いが、足利尊氏、
足利氏満時代の、もともとは小山朝政築とも、小山義政
の館とも、宿城だとも言われる、小山朝政子孫の小山氏
の時代、南北朝時代14世紀の武家の館よりは少し下る。
つまり、

裏一文字金角行将棋駒は、後世の”写しの品”

とみているという事である。また今まで述べなかったが、
本ブログでは、
8号、10号、11号井戸から大量に出土している、

曲げ物の材料となる方形板切れや箸は、江戸時代かどう
かは特定できないものの、かなり後の、祭事用等のもの

だと考える。根拠は、
小山義政の館等だった時代の、中心の井戸と、道路樹木
片や井戸の側板から年代測定、樹木同定からされている
とされている14号井戸から、これらの8号、10号、
11号井戸跡に特徴的な、大量の木製品が、

ほぼ出土していない

からである。木製の遺物は北側井戸跡について、たいへ
ん特徴的だが、他の同年代レベルの、栃木県の城跡から、
かわらけといっしょには、

大量に出土している例が少ない事から、やはり、
”青蓮寺期”のもの

なのではないか。すると、神鳥谷曲輪からも銭が出てい
てこれは南北朝時代であるにしても、祇園城遺跡ほどの
量でなく、概ねカワラケと青磁のカケラだけの、比較的
地味な出土品が、栄光の小山氏時代の全てという事にな
るのだが。これが、小山義政館と言われた時代から有っ
た、遺品の全てのような気が、今の所してならない。
 むろん、だからこの遺跡が、小山氏の小山朝政から、
小山隆政までの代の、平素の居城では無かったとの、
証拠には、特にならないと思う。
 単に青蓮寺の時代は、代表的年代としては今から約
300年前。それに対し、小山義政の時代は、600年
以上も前だと言う、

単なる古さの差

の効果のように私には思われる。近くの持宝寺にも本来
なら古い寺なので、青蓮寺の”宝物”、下駄、将棋駒、
櫛等に関する情報が、江戸時代までは残っていたのだろ
う。
 しかし明治の火事で、持宝寺は焼けてしまったそうだ。
そこで、火事になって、記録が失われてしまうと、せい
ぜい、青蓮寺の和尚が合戦嫌いで、幕末に黒船を打ち払
う、大砲用に使用するための、鐘の銅の拠出を拒んだ話
位が、残る程度になったのだろう。青蓮寺について話は、

他にたくさん有ったが、持宝寺の明治の火事で消滅した

という意味だ。
 なお、理由は不明だが。14号井戸にだけ、小山義政
時代の遺物がかたまり、青蓮寺の遺物は、北の方にかた
まって、出ているようだ。栃木県小山市の、
小山パレスホテルが、旧青蓮寺の本堂の位置だと、当て
ずっぽうだが、私には常々感じられる。
 ただし、墓石の一部が、14号井戸付近からも出てい
る。これについては、地元では青蓮寺の時代とみられて
いるようだ。理由は謎として、それで正しいのだろう。
 なお、前に北の窪みから出た”宮内”墨書土器が、8
号井戸関連と述べたが、

間違いのようだ。

理由は窪みが浅いためだ。この墨書土器は、どうみても、
かなり新しく、近代にも地表に露出していた、天満宮の
備品の疑いがある。(2019/05/23)

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